佐藤眞さん死去、88歳|「大地讃頌」と「土の歌」の関係とは?

学校の合唱で「大地讃頌」を歌った記憶がある人も多いのではないでしょうか。
その作曲者として知られる佐藤眞(さとう・しん)さんが、2026年9月21日に88歳で亡くなりました。訃報は9月28日に公表されています。
「大地讃頌」は学校合唱の定番として広く知られていますが、実は最初から学校で歌うピアノ伴奏の合唱曲として作られたわけではありません。もともとは混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」全7楽章の最後、第7楽章として生まれた作品です。
しかも「大地讃頌」だけを聴いているとなかなか見えてこない、戦争の記憶も「土の歌」全体には流れています。
佐藤さん自身も生前、「大地讃頌」が中学生や高校生に歌われていることを喜びながら、「土の歌」全体を知ってほしいという思いを語っていました。
この記事では訃報の内容とともに、「大地讃頌」はそもそもどんな作品だったのか、作詩した大木惇夫との関係や「土の歌」が生まれた背景までたどります。
佐藤眞さんが88歳で死去|「大地讃頌」の作曲家
佐藤眞さんは2026年9月21日、88歳で亡くなりました。
9月28日に公表された訃報では、葬儀・告別式は近親者で執り行ったこと、弔問や香典、供花、供物などを辞退すること、後日「お別れの会」を予定していることが案内されています。お別れの会の日時や会場については、今後あらためて案内するとされています。
共同通信は、佐藤さんが誤嚥性肺炎のため東京都江東区の病院で亡くなったと報じています。喪主は長男の翔さんです。
ここで区別しておきたいのは、9月21日が亡くなった日で、9月28日は訃報が公表された日だということです。また、死因などの詳細は公式訃報そのものではなく、共同通信などの報道で伝えられている情報です。
佐藤眞さんとはどんな作曲家だった?
佐藤眞さんは1938年、茨城県水戸市生まれ。東京藝術大学音楽学部作曲科を卒業し、専攻科を修了しました。作曲を下総皖一、池内友次郎に師事しています。
のちに東京藝術大学で後進の指導にも携わり、同大学音楽学部名誉教授となりました。
「大地讃頌」の知名度があまりにも高いため、合唱曲の作曲家という印象を持っている人もいるかもしれません。しかし活動範囲は合唱に限らず、交響曲、オペラ、協奏曲、管弦楽作品など多岐にわたります。
公式プロフィールには、日本音楽コンクール作曲部門第1位・特別作曲賞、芸術祭賞、芸術祭大賞、トリノ市賞、イタリア賞音楽部門グランプリなどの受賞歴も記されています。
つまり佐藤眞さんは、「大地讃頌」という一曲だけで語り切れる作曲家ではありません。その幅広い仕事の中で、とりわけ学校教育を通して多くの人に届いた作品が「大地讃頌」だった、という位置づけになります。
「大地讃頌」はどんな曲?実は「土の歌」の最終第7楽章

「大地讃頌(だいちさんしょう)」について、まず押さえておきたいのが作詩者と作曲者です。
作詩:大木惇夫
作曲:佐藤眞
佐藤眞さんが歌詞も書いた作品ではありません。
さらに重要なのが、「大地讃頌」は単独の合唱曲として誕生したわけではないという点です。
1962年に作曲された混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」。その全7楽章の最後に置かれているのが「大地讃頌」です。
「土の歌」は全部で7楽章
| 楽章 | 曲名 |
|---|---|
| 第1楽章 | 農夫と土 |
| 第2楽章 | 祖国の土 |
| 第3楽章 | 死の灰 |
| 第4楽章 | もぐらもち |
| 第5楽章 | 天地の怒り |
| 第6楽章 | 地上の祈り |
| 第7楽章 | 大地讃頌 |
学校で「大地讃頌」だけを歌った経験があると、独立した一曲という印象が強いかもしれません。
しかし本来は、「農夫と土」から始まり、「死の灰」「天地の怒り」「地上の祈り」を経たあとにたどり着く終曲です。この全体像を知ると、「大地讃頌」の見え方も少し変わってきます。
原曲は学校でおなじみのピアノ伴奏ではなかった
もう一つ意外なのが、現在よく知られているピアノ伴奏の形が作品の出発点ではないことです。
佐藤さんは2022年、音楽之友社のWebメディア「ONTOMO」のインタビューで、「土の歌」はオーケストラと合唱のために作った作品だと振り返っています。
東京藝術大学附属図書館が所蔵する楽譜の書誌情報でも、原曲が混声合唱とオーケストラのための作品であることが確認できます。
学校で親しまれているピアノ伴奏版は、その後広く歌われるようになった形です。
佐藤さん自身も、ピアノ伴奏で「大地讃頌」を知った人に、機会があればオーケストラ伴奏による本来の響きも聴いてほしいという趣旨を語っています。
佐藤眞さん本人が語った「大地讃頌」誕生の経緯は、ONTOMOのインタビューでも読むことができます。
「土の歌」は1962年、佐藤眞さんが20代前半のころに誕生
「土の歌」が作曲されたのは1962年。佐藤眞さんは1938年生まれです。
本人のインタビューによれば、話が動き始めたのは1961年暮れでした。
日本ビクター、東京混声合唱団、NHK交響楽団の関係者らの間で、オーケストラと合唱によるカンタータを作ろうという話が持ち上がったといいます。
翌年の歌会始のお題が「土」だったことも、「土の歌」という題材につながりました。
当時の佐藤さんは東京藝術大学の大学院生。本人は後年、作曲家としてまだ駆け出しのころだったと振り返っています。
「24歳で作った」と紹介されることもありますが、作曲した具体的な時期まで特定しなければ、その瞬間の満年齢は断定できません。この記事では「20代前半のころ」としておきます。
初演には指揮の岩城宏之、東京混声合唱団、NHK交響楽団が関わったことが資料から確認できます。一方、今回確認した資料だけでは初演日と会場まで一次資料で確実に特定できなかったため、ここでは推測で補いません。
「大地讃頌」だけでは見えない「土の歌」と戦争の記憶
「大地讃頌」だけを学校で歌った人にとって、「土の歌」の楽章一覧に「死の灰」という題名があることは意外かもしれません。
「土の歌」全体には、戦争の記憶が深く関わっています。
作詩した大木惇夫と戦争
「土の歌」の詩を書いた大木惇夫は広島生まれで、戦時中には従軍詩人として活動しました。
佐藤さんは本人インタビューの中で、大木から聞いた話として、戦争中の経験や故郷・広島への原爆投下などを背景に抱えた葛藤が「土の歌」に込められていることを語っています。
そのため、「大地讃頌」だけを大地への壮大な賛歌として聴くのと、第1楽章から「土の歌」全体をたどったうえで聴くのとでは、受け取る印象も変わってきます。
佐藤眞さん自身にも戦争の記憶があった
佐藤さん自身も、終戦時は小学校1年生でした。
2022年のインタビューでは、自宅近くに爆弾が落ちた経験についても語っています。幼いころの佐藤さんにも、戦争は遠い出来事ではありませんでした。
ただし、ここから「大地讃頌は原爆を歌った曲」と単純化するのは正確ではありません。
戦争や「死の灰」は「土の歌」全体を理解するうえで重要な背景ですが、「大地讃頌」はその全7楽章を締めくくる終曲です。作品全体の流れの中で捉える必要があります。
なぜ「大地讃頌」は学校で歌い継がれてきた?
「大地讃頌」と聞いて、学校の音楽室や合唱コンクールを思い出す人もいるでしょう。
音楽之友社は2022年の記事で、「大地讃頌」を全国の中学校・高校で何十年も歌い継がれてきた作品として紹介しています。現在も学校向けの合唱曲集に収録され、教育音楽の教材として扱われています。
さらに「学校でよく歌われている」だけではありません。
中学校の文部科学省検定済み音楽教科書への掲載も確認できます。
2024年度検定の教育出版「中学音楽 2・3下 音楽のおくりもの」では、「大地讃頌(カンタータ『土の歌』から)」として掲載されています。過去には教育芸術社の中学校音楽教科書への掲載実績もあります。
学校向け合唱曲集、音楽教材、教科書などを通じて長く接点が作られてきたことは、「大地讃頌」が学校合唱の定番になっている背景を考えるうえで重要でしょう。
一方、「壮大だから定番になった」「卒業式に最適だから広まった」といった一つの理由だけで全国的な定着を説明できる一次資料は、今回の調査では確認できませんでした。
また「大地讃頌」は卒業式専用の曲でもありません。合唱コンクールをはじめ、さまざまな学校合唱の場で歌われています。
佐藤眞さんは「土の歌」全体を知ってほしいと語っていた
「大地讃頌」がこれほど広く知られるようになったことを、作曲者本人はどう受け止めていたのでしょうか。
2022年のインタビューで佐藤さんは、全国の中学生、高校生に歌われるようになったことについて喜びを示しています。
その一方で、「大地讃頌」はあくまで「土の歌」全7楽章の最後の曲です。
だからこそ、終曲だけではなく「土の歌」全体を知ってほしいという趣旨の思いも語っていました。
これは「大地讃頌」だけが有名になったことへの不満とは違います。広く歌われていることを喜びながら、その先にある作品全体にも触れてほしいという話です。
学校で「大地讃頌」を知った人にとっては、今回あらためて第1楽章「農夫と土」から「土の歌」をたどってみることが、佐藤さんが作った本来の作品に触れる一つの方法になりそうです。
「大地讃頌」だけではない佐藤眞さんの仕事
佐藤眞さんの名前を今回の訃報で初めて意識したという人もいるかもしれません。
しかし、佐藤さんの創作活動は「大地讃頌」だけではありません。
合唱作品をはじめ、交響曲、オペラ、協奏曲、管弦楽曲など幅広い分野で作品を残しました。学校の校歌や自治体に関係する楽曲、企業の社歌なども手掛けています。
また、東京藝術大学では教育者として後進の育成にも携わりました。
それでも一般の人が佐藤眞という作曲家に触れる入口として、「大地讃頌」が特別な位置にあることは確かでしょう。
学校で一度歌っただけでも、何十年後かに曲名や旋律を聞いて当時を思い出す。そうした形で一つの作品が世代をまたいで共有されてきたことは、学校合唱ならではの広がりでもあります。
まとめ|「大地讃頌」の作曲者・佐藤眞さんが残したもの
「大地讃頌」の作曲者として広く知られる佐藤眞さんは、2026年9月21日に88歳で亡くなりました。
学校で親しまれてきた「大地讃頌」は、作詩・大木惇夫、作曲・佐藤眞。1962年に作曲されたカンタータ「土の歌」全7楽章の最後、第7楽章です。
原曲はピアノ伴奏の学校合唱曲ではなく、混声合唱とオーケストラのための作品でした。「死の灰」や「地上の祈り」などを含む全体をたどると、学校で「大地讃頌」だけを歌ったときには見えにくかった作品の背景も浮かんできます。
そして佐藤さん自身も、「大地讃頌」が若い世代に歌われていることを喜びながら、「土の歌」全体を知ってほしいという思いを残していました。
学生時代に歌った「大地讃頌」を覚えているなら、終曲だけでなく、その前に6つの楽章があることを知るだけでも、あの曲をもう一度聴くきっかけになるかもしれません。