熊に立ち向かった小さな勇者──ビーグル犬チコの物語

熊の出没が相次ぐこの秋、
新聞の片隅に、静かな感動を呼ぶ記事が掲載された。
登場したのは、新潟県の山あいに暮らす住職と、一匹のビーグル犬。
名はチコ。
「鳴き声がうるさい」と手放されたその犬は、やがて飼い主の命を救う“勇者”となった。
「勇敢な犬ほどよく吠える」──
その一文で締めくくられたこの記事は、
恐怖と優しさ、そして絆の強さを私たちに思い出させてくれる。
もう一度、犬を迎える勇気──ビーグル犬チコとの出会い
3年前、長年連れ添った柴犬チコを老衰で亡くした。
その寂しさを埋めるように暮らしていたある日、
新潟県五泉市の住職・吉原東玄さんのもとに、
「やんちゃなビーグル犬がいるんですが、見てみませんか」
という誘いが届いた。
最初は断るつもりだった。
だが、子どもたちが「もう一度犬と暮らしたい」と願っていた。
その気持ちに背中を押され、半ば迷いながら訪れたペットショップ。
そこにいたのは、両手に乗るくらいの小さなビーグル犬だった。
生後5か月。
最初の飼い主からは「鳴き声がうるさい」という理由で返されたと聞いた。
丸い瞳と、垂れた耳が揺れる仕草。
見つめ合ったその瞬間、
吉原さんは不思議と、亡き柴犬チコを思い出した。
運命を感じ、その場で抱き上げた。
その子に、もう一度同じ名をつけた──「チコ」。

やんちゃなチコと、鳴き声の意味
家に迎えたチコは、想像以上にやんちゃだった。
カーテンを引き裂き、家具の脚をかじり、
気に入らないことがあると、すぐに大きな声で吠えた。
朝は早くから「散歩に行こう」と鳴き、
夜中に寂しくなれば、枕元でワンワンと訴える。
まるで「生きているんだ」と確かめるような声だった。
子どもたちは最初こそ怖がり、
妻は何度も「ブリーダーに返そう」と口にした。
けれど、吉原さんはそのたびに言った。

「ご縁があって、うちに来たんだ。チコはチコのままでいい」
その日から、家の中には再び笑い声が戻った。
そして、鳴き声はしだいに「うるさい」から「頼もしい」へと変わっていった。
熊との遭遇、そして命を救った声
あの日、チコが我が家に来て1年半ほどが経った2024年5月29日。
午前8時半ごろ、吉原さんはいつものように自宅近くの登山道を散歩していた。
木々の隙間から朝日が差し込む静かな山道。
そのとき、茂みの奥から全身真っ黒な影が現れた。
体長1.5メートルを超えるクマだった。
距離はわずか5メートル。
熊は地面を蹴り、思いがけない速さで突進してきた。
吉原さんは身をかわそうとしたが、足を取られて地面に倒れこんだ。
熊がすぐに向きを変え、今にも襲いかかってきそうになった瞬間――
チコが吠えた。

低く響く、これまでに聞いたことのない声だった。
野太く、まるで全身で威嚇するような咆哮。
熊は一瞬たじろぎ、そして身を翻して森の奥へと逃げていった。
安堵の間もなく、チコは熊を追って走り出した。
散歩用のリードが、いつのまにか手から離れていた。
チコの姿は森の奥に消えた。
吉原さんは肩に激しい痛みを感じながら、体を引きずるようにして自宅へ戻った。
その後すぐに車を出し、山中の林道をくまなく走りながら、
「チコ!」と何度も名を呼び続けた。
やがてスマートフォンが鳴った。
出ると、妻の声だった。
「チコ、帰ってきたよ。」
家に戻ると、チコは寺の境内をぐるぐると駆け回っていた。
吉原さんはその場に座り込み、チコを抱きしめた。
涙が止まらなかった。
ぼやけた視界の中で、チコの丸い瞳だけが、りりしく輝いて見えた。

勇敢な犬ほどよく吠える
あの日から数か月が過ぎた。
朝になると、チコはいつものように大きな声で鳴く。
散歩をせがむ声は相変わらず響き渡り、
その元気さに吉原さんは思わず笑みをこぼす。
かつて、誰かに「うるさい」と言われた鳴き声。
今ではその声が、吉原さんにとって何よりも大切な音になった。
その声がなければ、あの日、自分は生きていなかったかもしれない。
命を救ったのは、恐れを知らぬ小さな犬の声。
それは本能であり、愛であり、
家族を守ろうとするまっすぐな気持ちの証だった。
「勇敢な犬ほど、よく吠える。」
その言葉の意味を、吉原さんは今も胸の奥で噛みしめている。

【後書き】
この物語は、実際に起きた出来事をもとに再構成したものです。
雪深い冬の朝、小さな命が大きな勇気を見せた——
その事実は、今も人々の心にあたたかな光を灯しています。