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粗品はM-1グランプリの審査員に「向いていない」のか?THE Wで見えた違和感

粗品がM-1審査員にいない違和感

粗品がマイクを手に語る姿。M-1審査員としての発言や評価基準が注目された場面を象徴する写真。

M-1のシーズンが来るたび、ふと同じ疑問がよぎる。霜降り明星・粗品は、なぜ審査席にいないのか。優勝経験があり、言葉で笑いを解剖できて、現役としての緊張感もある。条件だけ見れば「いてもおかしくない」。それなのに、いない。この“不在”が、いつの間にかひとつの違和感として残り続けている。

THE Wで見えた“審査員・粗品”は、その違和感をさらに濃くした。コメントの切れ味は確かに鋭い。良い点を拾いつつ、課題にも踏み込む。だからこそ賛否も出るし、言葉そのものが話題になる。あの場面を見たあとだと、どうしても考えてしまう。もし同じ調子で、M-1の審査席から言葉が放たれたら――会場の空気は、視聴者の受け止め方は、そして大会そのものの温度は、どう変わるのか。

ここで大事なのは、「選ばれない理由」を断定することではない。むしろ逆で、粗品が審査員にいなくてもM-1は成立してしまう。その事実のほうが、不思議なくらい強い。M-1の審査員は、点数をつけるだけの役割ではない。大会の空気を安定させ、視聴者の納得を作り、言葉で“その年のM-1”を定義する存在でもある。そこに粗品が座る未来を想像すると、期待と同じだけの緊張感が生まれるのはなぜか。

この違和感の正体を、THE Wでのコメントの残り方も手がかりにしながら考えていく。粗品は審査員に向いているのか、向いていないのか。それとも、向いている・向いていないという二択では語れない何かが、ここにはあるのか。

M-1の審査は「とにかくおもしろい漫才」なのに、なぜ毎年“言葉”が残るのか

M-1の審査基準は、公式の参加規定でも「とにかくおもしろい漫才」と明記されている。
にもかかわらず、放送後に残り続けるのは「点数」だけじゃない。むしろ、審査員の“ひと言”が、その年の大会の空気を決定づける。

点数は結果として一瞬で流れる。けれどコメントは、視聴者の頭の中に「その漫才をどう見ればいいか」という地図を作る。
だからこそ、コメントが刺されば刺さるほど、視聴者は「なるほど」と思う一方で、「そこまで言う?」も同時に起きる。評価が割れるのは、漫才の好み以上に“言葉の強度”が原因になる。

THE Wで粗品のコメントが検索され続けるのも、ここに近い。ネタそのものだけでなく、言葉が“引用される”状態に入ると、放送が終わっても話題が終わらない。

2025年のM-1審査員9人が示す「大会が欲しい視点」

2025年のM-1決勝の審査員は以下の9人。

  • 海原ともこ(海原やすよ ともこ)
  • 後藤輝基(フットボールアワー)
  • 駒場孝(ミルクボーイ)
  • 柴田英嗣(アンタッチャブル)
  • 哲夫(笑い飯)
  • 博多大吉(博多華丸・大吉)
  • 塙宣之(ナイツ)
  • 山内健司(かまいたち)
  • 礼二(中川家)

この布陣が示しているのは、「強い言語化」と「王者経験」をどちらも重ねたい大会側の意思だ。実際、後藤・駒場が新加入という報道も出ている。
M-1は“漫才の大会”であると同時に、“漫才を説明する大会”にもなっている。だから審査員のコメントは、もはや付録じゃなく本編の一部になる。

ここで粗品を当てはめて考えると、問題は能力の有無じゃない。
粗品は言葉を持っている。だからこそ、審査席に座ったときに大会が受け取る熱量も、視聴者が受け取る刺激も、良くも悪くも増幅する。その増幅が、M-1という番組の設計と噛み合うかどうか――そこが焦点になる。

粗品はM-1審査員に「向いていない」のか?M-1審査員に求められる“重心”

漫才コンビが審査員の前でネタを披露する審査シーンの対比イラスト。M-1とTHE Wそれぞれの審査環境の違いを象徴した構図。

M-1の参加規定では、審査基準は「とにかくおもしろい漫才」とされています。
ただ、決勝の審査員が毎年これほど話題になるのは、採点だけで勝敗が決まる以上に、審査員のコメントが「その年のM-1の空気」を決めてしまうからです。

ここでいう“重心”とは、漫才の良し悪しを語る技術だけではありません。視聴者が納得できる言葉を選び、会場の熱を落とさず、敗者にも勝者にも筋が通る説明を返す――そういう「大会を安定させる力」まで含めた役割です。M-1の審査席は、点数をつける場所であると同時に、視聴者の視点を整える場所でもあります。

だからこそ、粗品が審査席に座る未来を想像すると、期待と同じくらいの緊張感が生まれます。粗品は言語化の切れ味が強く、短い言葉でも論点を立てられるタイプです。良い点を拾いながらも課題に踏み込める反面、その強度が高いほど、受け止め方は割れやすくなります。ここで起きるのは「向いている/向いていない」という能力論ではなく、M-1が審査席に求めている重心の作り方と、粗品の言葉が生む熱量が、どう噛み合うかという問題です。

つまり、粗品がM-1審査員に向いているかどうかは、粗品の実力を測る話ではなく、M-1という番組が審査コメントに背負わせている役割をどう考えるかに近い。審査席に座ったとき、粗品の言葉は大会を“整理”するのか、それとも大会そのものを“揺らす”のか――この想像が止まらないからこそ、「粗品はなぜ審査員にいないのか」という違和感が残り続けます。

粗品がM-1審査員になったら何が変わる?コメントが“引用される”ことで起きること

M-1は点数で勝敗が決まる大会ですが、放送後に語られ続けるのは結果だけではありません。審査員のコメントが切り抜かれ、引用され、別の文脈でも繰り返し参照されると、ネタの評価は「その場の採点」から少しずつ性格を変えていきます。

コメントが引用される状態になると、起きやすい変化は大きく3つあります。
ひとつは、ネタそのものより「言葉」が先に独り歩きしやすくなること。審査員の一言が短く強いほど、要点が伝わる一方で、ニュアンスが落ちて賛否が生まれやすくなります。
ふたつめは、視聴者の“答え合わせ”が点数ではなくコメントで行われやすくなること。点数を見て納得する人もいれば、コメントの言い回しで納得したい人もいる。コメントが強く残るほど、後者の割合が増えます。
みっつめは、大会全体の語られ方が「どの漫才がすごかったか」だけでなく、「審査は妥当だったか」という議論に寄っていくことです。

ここに粗品を当てはめて考えると、焦点は採点の正確さではありません。粗品の言葉は、短くても論点が立ち、印象に残りやすい。その強度が、M-1という番組の外側で引用され続けたとき、大会の熱量を上げる可能性がある一方で、議論の中心がネタから審査へ移ってしまうリスクも高まります。

粗品が審査員に座ることで変わるのは、勝敗の出方というより、放送後の“余韻の残り方”です。コメントが強く残る大会になるのか、あるいはコメントが残りすぎてしまう大会になるのか。期待と緊張感が同時に生まれるのは、その境界線がとても薄いからだと思います。

THE Wの粗品コメントとM-1が違うところは「番組の設計」そのもの

同じ「賞レース」でも、THE WとM-1は番組としての設計がかなり違います。参加者の見え方、放送のテンポ、会場の空気、視聴者が求める“納得の作り方”まで含めて、求められるコメントの役割が変わってくる。

THE Wで粗品のコメントが強く残ったのは、良し悪しを断定したからではなく、「どこが良くて、どこが引っかかるか」を短い言葉で立ち上げた場面があったからだと思います。言葉が整理になる一方で、強度が高いほど受け止め方も割れやすい。ここが、賛否が生まれやすいポイントです。

一方、M-1は点数が並ぶことで“結果の物語”が強く出る大会です。視聴者も点数の上下に敏感で、審査コメントは「評価の根拠を説明する」だけでなく、「点数に納得してもらう」役割を背負いやすい。つまり、コメントが鋭ければ良いというより、鋭さを大会の空気にどう馴染ませるかが問われます。

だからこそ、THE Wで見えた“審査員・粗品”が、そのままM-1に移ったらどうなるのかは単純に比較できません。同じ言い回しでも、受け止め方が変わり、賛否の出方も変わる。粗品がM-1審査員に座る未来を想像したときに、期待と同じだけの緊張感が生まれるのは、まさにこの「番組の設計」の違いが大きいからです。

クイック・ジャパン vol.180

クイック・ジャパン vol.180には、霜降り明星・粗品のインタビューも掲載。言葉選びや思考のスタンスが伝わる内容で、M-1の審査席に「粗品がいたらどうなるのか」を考えたくなった人にとって、発言の背景を掴む手がかりになる一冊です。

価格・在庫・版の違いなどは変動します。購入の際は各ショップの商品ページで最新情報をご確認ください。

粗品のコメントが「主役」を奪ってしまう危うさ

M-1は注目度が高いぶん、審査コメントの一言が切り抜かれ、審査員そのものが批判の的になることもあります。点数よりもコメントが独り歩きして、議論の中心が漫才ではなく「審査の是非」に寄ってしまう瞬間がある。だからこそM-1は、審査員に“正しさ”だけでなく“温度調整”まで背負わせがちです。

この前提で粗品を考えると、問題は採点能力ではありません。粗品のコメントは、短い言葉でも論点が立ちやすく、良くも悪くも話題になりやすい。言葉が刺さるほど拡散は速く、賛否も生まれやすい。つまり粗品が審査席に座った場合、漫才の勝負そのものよりも「粗品が何を言ったか」が先にトレンド化し、出場者より審査員が目立つ展開が起こり得ます。

それはM-1にとって、最も避けたい形かもしれません。大会の主役は出場者であり、最後に残るべきは“漫才の記憶”のはずです。ところが審査員の言葉が強すぎると、出場者の漫才が「粗品のコメントの材料」として消費されてしまう危険が出てくる。そうなると、敗者側のファン感情は一気に燃えやすくなり、賛否が審査員批判へ直結して炎上に発展しやすい構図ができてしまいます。

だからこそ、粗品がM-1審査員になる/ならないの議論は、単なる人選の話で終わりません。粗品の言語化が大会に新しい納得感をもたらす可能性と同時に、「主役を食うほどの話題性」をどう扱うかという難しさも抱えている。M-1が審査席に求める“重心”とは、鋭さだけではなく、主役を主役のまま輝かせるための抑制と設計でもある――そう考えると、この違和感は一層はっきりして見えてきます。

粗品の言葉が「正しいかどうか」以前に、M-1が試されるのは“主役を守れる設計かどうか”――その一点なのかもしれません。

粗品がM-1審査員にいないのは“先送り”なのか、“役割分担”なのか

M-1審査員席のステージ風景。無人の審査席とマイクが並び、漫才の評価が行われる緊張感ある審査会場を象徴するイメージ。

M-1グランプリ2025は、決勝が12月21日に生放送で行われ、例年通り「年末の一大イベント」として大きな注目を集めた大会だった。点数の動きや順位だけでなく、審査コメントの一言一言が放送後も切り取られ、議論の材料として残っていったのも、近年のM-1らしい光景と言える。

この結果を踏まえると、粗品の“不在”はよりはっきりとした意味を帯びて見えてくる。「なぜ選ばれなかったのか」よりも、「粗品がいなくてもM-1は成立し、むしろ安定して進行した」という事実のほうが印象に残るからだ。M-1は、審査席の言葉が強くなりすぎると、漫才の勝負そのものよりも“審査の是非”が話題の中心に寄りやすい大会でもある。2025年大会でも、その構造は変わっていなかった。

だからこそ、粗品が審査員にいない状態は「先送り」ではなく、ひとつの役割分担として機能しているようにも見える。舞台に立つ側としての実績と、外側から言葉で切り取る力を併せ持つ粗品は、審査席に座らないことで、かえってキャラクターの輪郭を保ち続けている。審査員として“大会の重心”になる未来が想像できるからこそ、2025年の時点では、あえて距離が置かれていた――そう受け取ることもできる。

大会が終わった今でも、「いつか座るのか」という問いだけはきれいに残っている。その問いが毎年繰り返されること自体が、粗品という存在がM-1に与えている影響の大きさを物語っているのかもしれない。

まとめ:粗品はM-1審査員に「向いていない」のか?この問いが消えない理由

M-1の審査基準は、参加規定で「とにかくおもしろい漫才」とされています。
それでも毎年、決勝が終わったあとに語られるのは点数や順位だけではありません。審査員のコメントが残り、引用され、納得や反発を生む。その積み重ねが、M-1を単なる採点の大会ではなく、「漫才を言葉で定義する大会」にもしてきました。

粗品は、言葉の強度を持った芸人です。短いコメントでも論点を立て、良い点と課題を同時に浮かび上がらせることができる。THE Wでそれが可視化されたことで、「もしM-1の審査席に座ったら」という想像が現実味を帯びました。期待と同じだけの緊張感が生まれるのは、粗品の言語化が大会に新しい熱量を足せる一方で、言葉が強く残りすぎたときに議論の中心が漫才から審査へ移ってしまう可能性もあるからです。

だからこの話は、「粗品が向いている/向いていない」という二択で終わりません。粗品の能力を疑う話ではなく、M-1が審査席に求めている“重心”の作り方と、粗品が持ち込む言葉の熱量が、いつどの形で交差するのかという話になる。審査員として座る未来も、座らないまま語られ続ける未来も、どちらも想像できてしまう。そこに答えを出しきれない余白があるからこそ、この問いは毎年、消えずに残っていく。

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