- 非常口マークは日本生まれ?誰が作った?「走る人」の由来と世界標準まで
- 非常口の「あの人」は、本当に日本生まれだった
- 昔の非常口には「あの人」がいなかった
- 大火災のあと、最初に行われたのは「文字を大きくすること」だった
- 全国から3,337点――「走る人」は公募から生まれた
- 「非常口マークを作った人=太田幸夫」だけでは足りない
- 原案から、さらに58種類の「走る人」が作られた
- このマークは「見た目」で選ばれたのではなかった
- なぜ非常口は緑色なのか
- 緑背景と白背景では意味が違う
- 日本では1982年から正式採用――では「1980年」は何の年?
- 日本案をISOへ送ると、「もう国際案はできている」と言われた
- 1987年、ISO 6309へ――ただし日本版がそのままコピーされたわけではない
- 現在の国際規格はISO 6309ではない
- 「世界中で同じ非常口マーク」は、どこまで本当?
- 「ピクトさん」は、あの人の正式名称?
- 1964年東京オリンピックで、ピクトグラムそのものが生まれたわけではない
- 毎日見ていた一枚の絵は、「一人のひらめき」ではなかった
- 主な参考資料
非常口マークは日本生まれ?誰が作った?「走る人」の由来と世界標準まで

駅でも、学校でも、会社でも、ホテルでも見かける。
緑色の四角の中で、白い人が扉へ向かって走っている。文字は一つもないのに、それが「非常口」だと、ほとんど反射的に分かります。
昔から世界中にあった記号のようにも見えますが、この「走る人」の歴史をたどっていくと、日本へ戻ってきます。
ただし、「日本人のデザイナーが一人で描いたマークが、そのまま世界共通になった」という話ではありません。
出発点には煙の中で文字が読めなくなる実験があり、全国から3,337点もの案が集まり、心理テストや煙中での視認実験が行われました。選ばれた原案はさらに何十通りも描き直され、完成した日本案を国際標準化機構(ISO)へ持ち込むと、そこにはすでに別の国際案がありました。
毎日見ている小さな絵は、思っている以上に長い時間をかけて作られています。
非常口の「あの人」は、本当に日本生まれだった
先に結論から言えば、現在の国際的な非常口サインにつながる日本案は、日本で行われた非常口ピクトグラムの公募と、その後の研究・リデザインから生まれました。
ただし、「誰が作ったのか」を一人の名前だけで答えると、かなり大事な部分が抜け落ちます。
全国公募で選ばれた原案を描いたのは小谷松敏文氏。その案をもとに、太田幸夫氏、鎌田経世氏、坂野長美氏らが形を詰めていきました。
さらに、その前段階には誘導灯の視認性を研究した神忠久氏らの仕事があり、完成した図案は消防関係の研究委員会による試験を通過して、日本の誘導灯へ採用されています。
つまり、あのマークは「一人のひらめき」というより、研究、公募、デザイン、実験、法制度、国際標準化が重なってできたものです。
昔の非常口には「あの人」がいなかった
現在のピクトグラムが使われる前、日本の誘導灯は文字が中心でした。
誘導灯研究に長く携わった神忠久氏が日本照明工業会に寄せた「誘導灯の歴史」によると、1975年以前の代表的な誘導灯は、縦12cm、横36cmほど。緑色の地に白抜きで、
- 非常口
- 非常出口
- 非常階段
などと表示されていました。
通常時には10Wの蛍光ランプが点灯し、停電すると豆球3個へ切り替わり、約20分間点灯する仕組みだったといいます。
しかも1975年に業界の統一的な認定が始まる以前は、東京消防庁、大阪市消防局、名古屋市消防局などが、それぞれ消防法に基づく基準で認定していました。
つまり、現在のような「誰が見ても同じ走る人」が全国に並んでいたわけではありません。
1970年、煙の中へ誘導灯を置いてみた
この歴史で非常に重要なのが、1970年5月に自治省消防研究所で行われた実験です。
全長20mの廊下に火災初期を想定した煙を満たし、その奥に誘導灯を設置。人が近づきながら、「何mまで来れば誘導灯を確認できるか」を調べました。
結果は厳しいものでした。
煙が濃くなるほど誘導灯を確認できる距離は急激に短くなり、「非常口」の三文字のうち、比較的単純な「口」は残って見えても、線の多い「非」や「常」はかなり薄い煙でも判別できなくなりました。
神氏は、この実験を通して、将来の誘導灯はできるだけ単純な文字、あるいは絵文字=ピクトグラムにする必要があると考えるようになったと記しています。
ここが重要です。
現在の非常口マークへつながる問題意識は、1972年の千日デパートビル火災よりも前から始まっていました。
大火災のあと、最初に行われたのは「文字を大きくすること」だった
非常口マークの誕生を説明する記事では、1972年の千日デパートビル火災と1973年の大洋デパート火災がしばしば登場します。
この二つの火災が、その後の防火・避難設備の強化に大きな影響を与えたこと自体は間違いありません。
消防庁の資料でも、両火災などを受けて百貨店等の防災対策が検討され、1974年には特定防火対象物に対する消防用設備等の遡及適用を含む消防法改正へ進んだことが確認できます。
誘導灯についても、従来の小形だけでなく、中形・大形の誘導灯が導入されました。
ところが、この段階で現在の「走る人」に置き換わったわけではありません。
まず行われたのは、文字をより大きく、より目立つようにすることでした。
当然、表示が大きくなれば見つけやすくなります。一方で、大型の「非常口」という文字表示が建物の中で非常に目立ち、店舗やホテルなどの内装を損なうという問題も出てきました。
そして、どれだけ文字を大きくしても、もう一つの問題は解決しません。
漢字が読めない子どもや、日本語を読めない外国人には、「非常口」という文字そのものの意味が伝わらないのです。
大火災は防火対策全体を大きく前進させた重要な契機でしたが、
「火災で非常口の文字が読めなかったので、直後に現在のマークが作られた」
という一本線の物語にしてしまうと、実際の経緯とは違ってきます。
なお、1982年2月に発生したホテルニュージャパン火災も、現在の非常口マークを生んだ原因ではありません。日本案はすでに1980年にISOへ提案され、消防庁も1982年1月から新しいピクトグラムを採用していました。
全国から3,337点――「走る人」は公募から生まれた
大きくて明るい文字にするだけでは足りない。
そこで動き出したのが、非常口そのものを「絵」で表す計画でした。
1978年、日本消防設備安全センターの自主研究として「防災システム研究委員会」が立ち上がり、その中に「避難誘導システム分科会」が設置されました。
主査となった神忠久氏が提案したテーマが、誘導灯表示面のピクトグラム化です。
ここで資料によって「1978年に公募」「1979年に公募」と年が分かれることがあります。
神氏の回顧では1978年の研究委員会発足後に公募へ進んだとされています。一方、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに残る調査記録では、日本消防設備安全センターの社史を確認した結果、公募は1979年3月31日付、決定作品の発表は1979年12月15日だったと整理されています。
そのため、
1978年=研究事業開始
1979年=全国公募・選考の年
と考えると、資料間の違いを最も無理なく説明できます。
応募総数は「3,337点」
応募数についても、ネット上では「約3,000点」「3,337点」「3,373点」など複数の数字が見つかります。
ここは3,337点を採用するのが妥当です。
神忠久氏の記録、太田幸夫氏の回顧など、制作過程に直接関わった人物側の資料が3,337点で一致しています。
その中から総合評価で最も高い成績を残したのが、小谷松敏文氏の案でした。
「非常口マークを作った人=太田幸夫」だけでは足りない
非常口マークについて調べると、「デザイナーの太田幸夫氏が作った」という説明を見かけることがあります。
太田氏が現在の形を完成させるうえで重要な役割を果たしたのは確かです。
ただし、公募で最初に選ばれた原案そのものを描いた人物は小谷松敏文氏でした。
日本デザイン振興会が2024年に開催した「ROOTS OF FUTURE」展でも、「非常口サイン 1980年」の関係者について、小谷松敏文氏をデザイン、太田幸夫氏、日本サインデザイン協会の鎌田経世氏・坂野長美氏をデザイン修正の関係者として紹介しています。
| 人物 | 非常口サインでの主な位置づけ |
|---|---|
| 小谷松敏文氏 | 全国公募で選ばれた原案を制作 |
| 太田幸夫氏 | 入選原案をもとに完成度を高めるデザイン作業を担当 |
| 鎌田経世氏 | リデザイン作業に参加 |
| 坂野長美氏 | リデザイン作業に参加 |
| 神忠久氏 | 煙中視認研究、公募、評価試験、ISO提案などを進めた研究側の中心人物 |
「原案者」と「完成形を作ったデザイナー」を分けて考えることが大切です。
原案から、さらに58種類の「走る人」が作られた
公募1位になれば、その絵がそのまま全国の建物へ取り付けられる。
そう考えたくなりますが、実際にはここからが長い作業でした。
太田幸夫氏自身の回顧によれば、小谷松氏の入選案をもとに、太田氏、鎌田経世氏、坂野長美氏らが58点のデザインバリエーションを制作しています。
人物の姿勢、腕や脚の形、扉との関係、図形としての単純さ、遠くから見たときの判別しやすさ。
非常時に見るサインですから、細かな造形が美しくても、数十m先から線が消えてしまえば意味がありません。
足先に「影」を加えたら、全身を直すことになった
太田氏の回顧には、完成までの細かなエピソードも残っています。
研究委員会の田辺隆治委員長から、伸ばした足の先に「陰」を付けるよう求められたといいます。
ところが、そのまま陰を加えると、走る人物の足と建物側の形が近づきすぎる。
そこで脚の角度を調整すると、今度は人体全体のバランスが崩れる。結局、脚だけではなく全身を調整することになりました。
毎日何気なく見ている単純な人型ですが、その単純さは「適当に線を減らした」結果ではありません。
何を残し、何を削れば、一瞬で「逃げる人」と「出口」に見えるのか。
その境界を何度も探った末の形でした。
このマークは「見た目」で選ばれたのではなかった
非常口マーク誕生の過程で、特に面白いのが選考方法です。
3,337点の応募案から最優秀作を選ぶ際、単純なデザイン審査だけではなく、神氏の記録では次の5種類の評価が行われました。
| 評価 | 何を見るのか |
|---|---|
| 図形の粗さ | 細すぎる線が遠くから消えて見えないか |
| デザイン評価 | 表示として成立しているか |
| 心理的評価 | 一般の人が瞬時に非常口だと理解できるか |
| 通常照明下での見え方 | 普段の建物内で識別できるか |
| 煙の中での見え方 | 火災時の視界でも認識できるか |
非常口のサインなので、格好よさだけでは足りません。
離れても分かる。煙があっても残る。初めて見る人にも意味が伝わる。
いくつもの条件を同時に満たす必要があります。
総合1位の案は、どのテストでも1位ではなかった
そして、ここに意外な結果があります。
神氏によると、ある案は一つのテストでは1位でも、別のテストでは7位、10位と順位を落としました。
一方、最終的に総合1位となった小谷松氏の案は、どのテストでも単独1位ではなかったそうです。
それでも、多くのテストで常に2位、3位前後を保ち、総合得点でトップになりました。
つまり選ばれたのは、特定の条件だけに極端に強いマークではありません。
さまざまな状況で安定して意味が伝わるマークでした。
「世界で最もよく見る記号の一つが、実験を重ねた結果として生き残った」。
そう考えると、あの単純な絵の見え方も少し変わってきます。
なぜ非常口は緑色なのか
非常口についてよく語られるのが、
「火は赤いので、その補色である緑が使われた」
という説明です。
赤と緑が視覚的に対照的な関係にあること自体は間違いではありません。しかし、「炎の補色だから緑になった」とだけ説明するのは不十分です。
現在のJISや消防関係の安全色体系では、緑は「安全」を表す色として位置づけられています。
消防庁の資料でも、安全色は大きく、
- 赤=防火・緊急
- 黄=危険
- 緑=安全
- 青=指示・誘導
と整理されています。
非常口や避難経路に緑が使われる最大の理由は、この「緑=安全な場所・避難」という意味体系にあります。
実は、煙の中では赤の方が少し見えやすかった
さらに興味深い記録があります。
神氏が行った煙中視認実験では、赤色光の方が緑色光より20~30%程度よく見えたとされています。
それなら非常口も赤にすればよさそうですが、赤には大きな問題があります。
火災時、煙の向こうに赤い光が見えれば、炎と誤認する可能性があります。加えて赤は、火災、危険、消防設備などを示す色として使われています。
一方の緑は、国内外で安全を示す色として使われてきました。
つまり、
「緑は煙の中で物理的に最もよく見えるから非常口に採用された」
という説明も正確ではありません。
見えやすさだけではなく、その色を見た人が何を意味すると受け取るかまで含めて決める必要があったわけです。
緑背景と白背景では意味が違う
ここまで読んだら、次に駅や商業施設へ行ったとき、非常口の表示を少し見てみてください。
似ているようで、背景が2種類あります。
緑地に白い人と、白地に緑の人や矢印です。
これは単なるデザイン違いではありません。
消防庁の現行「誘導灯及び誘導標識の基準」では、次のように区別されています。
| 表示 | 主な名称 | 意味 |
|---|---|---|
| 緑地+白い人物 | 避難口誘導灯 | 避難口そのものの位置を示す |
| 白地+緑の矢印・人物 | 通路誘導灯 | 避難口へ向かう方向・経路を示す |
かなり乱暴に覚えるなら、
緑背景=「ここ」
白背景=「こっち」
です。
ただし、「緑背景の扉を開ければ必ずそのまま屋外へ出られる」という意味ではありません。
消防法令上の避難口には、避難階段への入口なども含まれます。
また、光る設備である「誘導灯」と、標識板として設置される「誘導標識」も同じものではありません。階段には階段通路誘導灯という区分もあります。
火災や地震の際には表示の意味だけでなく、その建物の避難計画や管理者の指示にも従う必要があります。地震時の避難については、つぶログの地震でエレベーターに乗っていたときの正しい行動を整理した記事でも詳しく確認しています。
日本では1982年から正式採用――では「1980年」は何の年?
非常口マークの歴史を調べると、
- 1979年に誕生
- 1980年に完成
- 1982年に制定
- 1987年に世界標準化
と、いくつもの年が出てきます。
どれか一つだけが正しく、残りが間違いというわけではありません。
指している段階が違います。
| 時期 | 何が起きたのか |
|---|---|
| 1970年ごろ | 煙の中で文字式誘導灯がどう見えるかを研究 |
| 1978年 | 防災システム研究委員会・避難誘導システム分科会が発足 |
| 1979年 | 全国公募・選考。3,337点から小谷松敏文氏案が選ばれる |
| 1979~1980年ごろ | 原案をもとに58種類のバリエーションなどを検討し、完成度を高める |
| 1980年5月 | 日本案をISO事務局へ提案 |
| 1982年1月 | 消防庁が新しいピクトグラムを誘導灯に採用 |
| 1984年12月 | パリのISO作業部会で日本案を基礎とした案が国際規格案へ進む |
| 1987年8月 | ISO 6309:1987が発行 |
「1982年に非常口マークが誕生した」とだけ書くと、公募やデザイン作業がそれ以前から進んでいたことが消えてしまいます。
逆に「1980年に完成した」とだけ書けば、日本の消防制度で正式に使われ始めた時期が分かりません。
日本案をISOへ送ると、「もう国際案はできている」と言われた
完成した日本案は、国内だけで使うことを目指したものではありませんでした。
神忠久氏の記録によれば、1980年5月、日本側は非常口を示す国際的なシンボルにするため、日本案をISO事務局へ提案します。
ところが、約1年後に返ってきたのは歓迎の言葉ではありませんでした。
ISO側ではすでに数年前から非常口のピクトグラムを検討し、国際案を作っていたため、「今の時点で提案されても受け入れられない」という趣旨の回答だったと神氏は記しています。
つまり、日本が世界で初めて非常口を絵にして、何もないISOへ持ち込んだわけではありません。
ISOでは日本案より前から国際標準化作業が進んでいました。
そこで日本側は、二つのマークを実際に比べた
日本側はそこで終わりませんでした。
当時のISO案を入手し、日本案との比較実験を実施します。
通常の照明下だけではなく、煙の中でも両方のマークの見え方を比べました。
神氏の記録では、その試験で日本案の方が通常照明下、煙中ともに高い視認性を示したとされています。
そこで日本側は、そのデータを添えてISOへ再検討を要請しました。
国内で3,337点を選んだときにも実験。
国際案と争う段階でも実験。
非常口マークの歴史を追っていくと、何度も同じ考え方が出てきます。
「良いデザインだから採用してほしい」ではなく、「本当に見えるのか、伝わるのかを測る」。
これが、日本案が国際標準化へ進んでいく大きな武器になりました。
1987年、ISO 6309へ――ただし日本版がそのままコピーされたわけではない
再検討後も、すぐに日本案へ決まったわけではありません。
ISOでは複数回の作業部会が行われ、1984年12月にはパリで最終段階の審議が行われました。
神氏はそこで、日本のピクトグラムができるまでの経緯と、ISO案との比較実験データを説明しています。
その後、日本案を基礎にしたデザインが国際規格案へ進み、1987年8月、ISO 6309:1987「Fire protection — Safety signs」が発行されました。
「日本の非常口マークが世界標準になった」とよく言われるのは、この出来事を指しています。
ただし、もう一つ覚えておきたいことがあります。
日本で使われている図形と、国際審議を経たISO系の非常口サインは、細部まで完全に同じではありません。
太田幸夫氏の回顧では、国際審議中に図形の下辺を閉じるなどの修正要求が出たことも記されています。
つまり、
日本で作られた完成案
↓
国際的な比較・協議
↓
一部を調整した国際規格
という流れです。
「日本の絵が一画も変わらず世界へコピーされた」という理解ではありません。
現在の国際規格はISO 6309ではない
ここは古い記事を読むと、特に混乱しやすい部分です。
1987年に制定されたISO 6309:1987は、現在ではWithdrawn(廃止)になっています。
その後、安全標識の体系はISO 7010へ移りました。
2026年10月時点で公開済みの現行版は、
ISO 7010:2019
Graphical symbols — Safety colours and safety signs — Registered safety signs
です。
ISO公式では2019年版に複数の追補が追加されており、次版となる規格の策定も進んでいます。
したがって、現在について説明するときに、
「世界の非常口マークは今もISO 6309で決まっている」
と書くのは正確ではありません。
「世界中で同じ非常口マーク」は、どこまで本当?
ここまで読むと、海外旅行へ行っても世界のどこにでも同じ走る人がいるように思えるかもしれません。
実際、日本発のデザインにつながる緑色の非常口ピクトグラムは国際的に非常に広く使われています。
ヨーロッパでも、EUの安全標識ルールでは非常避難や救護を示す標識について、四角または長方形、緑背景、白いピクトグラムという体系が定められています。
英国の安全衛生当局HSEも、非常口表示の例としてBS EN ISO 7010に基づく走る人型のサインを示しています。
一方で、世界すべての国が完全に同じ表示を義務化しているわけではありません。
アメリカでは今も「EXIT」が法令上重要
分かりやすい例が米国です。
米国労働安全衛生局(OSHA)の現行規則では、出口について、明確に「Exit」と読める標識を設置するよう定めています。
しかも「Exit」という文字の大きさまで規定されています。
つまり、米国では日本やISO系の走る人だけが唯一の法定表示というわけではありません。
文字とピクトグラムを併用する施設もあります。
EUのルールでも、図形は例示とわずかに異なるものを使用でき、意味を損なわない範囲で差が認められています。
そのため、この記事で「世界中へ広がった」と表現するのは、
日本で生まれた案が国際規格化の重要な基礎となり、現在の国際的な非常口サインへつながった
という意味です。
世界のすべての建物に、まったく同じ1枚が貼られているという意味ではありません。
「ピクトさん」は、あの人の正式名称?
走る人を指して「ピクトさん」という呼び方を見かけることがあります。
親しみやすい名前ですが、これは消防庁やISOが付けた公式名称ではありません。
日本の消防庁告示では、図そのものを「避難口であることを示すシンボル」として扱っています。
ISOでも、標識はEmergency exitなど機能に基づいて整理されます。
つまり「あの人」自身に、公式な人名が付いているわけではありません。
「ピクトさん」は後世に生まれた愛称・文化的な呼び方として考えるのがよいでしょう。
1964年東京オリンピックで、ピクトグラムそのものが生まれたわけではない
日本のピクトグラム史を調べると、1964年東京オリンピックも必ずと言っていいほど登場します。
世界中から来る選手や観客に、言葉へ頼らず情報を伝える必要があったため、勝見勝氏のディレクションのもと、競技や施設を表すピクトグラムが体系的に整備されました。
これは日本の公共サインデザインにとって非常に大きな出来事でした。
ただし、
「ピクトグラムは1964年東京オリンピックで日本人が発明した」
という意味ではありません。
絵や図形を使って情報を伝える仕組みは、それ以前から存在します。
また、東京1964のピクトグラムがそのまま非常口マークへ変化したわけでもありません。
非常口マークには、1970年代に別の防災研究、公募、視認実験という独自の開発過程があります。
東京1964は直接の原型というより、言葉に頼らない公共情報をデザインする文化が日本で育っていく大きな背景の一つと見るのが自然です。
毎日見ていた一枚の絵は、「一人のひらめき」ではなかった
非常口のマークは日本で生まれた。
ここだけ切り取れば、一行で終わる雑学です。
ところが、その一行を掘ってみると、ずっと長い話が隠れていました。
1970年、煙の中へ文字式の誘導灯を置いてみると、「非常口」の複雑な漢字はあっけなく見えにくくなった。
1972年、1973年の大火災を経て、まず誘導灯は大型化された。
それでも文字には、子どもや外国人に伝わらないという壁が残った。
そこで全国公募を行い、3,337点を集めた。
しかも、審査員の感覚だけでは決めず、遠距離、心理、通常照明、煙の中など複数の条件で試した。
総合1位になった案は、どのテストでも単独1位ではなかった。
選ばれた小谷松敏文氏の原案を、そのまま使うこともしなかった。
太田幸夫氏らが58種類ものバリエーションを作り、人物の脚一つまで詰め直した。
完成した日本案をISOへ送ったら、今度は「すでに国際案がある」と言われた。
そこでまた、煙の中で比べた。
そして長い国際審議を経て、1987年のISO 6309へつながった。
現在は規格そのものもISO 7010へ変わり、日本と海外の表示には細かな違いも残っています。
それでも、駅や学校、ホテルの天井を見上げれば、そこで走り続けている人の中に、1970年代の日本で始まった研究とデザインの痕跡を見ることができます。
身近なものほど、いつからそこにあるのか考えなくなるものです。
道路の足元に残る古いマークから街の過去を追ったマンホールに残る「消えた組織」の痕跡を調べた記事もそうですが、毎日見えているものの中には、その形になった理由が長い時間をかけて積み重なっているものがあります。
非常口の「あの人」も、その一つでした。