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日本には「1年が13か月」の年があった?旧暦の閏月とは何だったのか

日本には1年が13か月の年があった?旧暦の閏月と明治改暦の謎

旧暦の10月と11月の間に閏10月が追加される様子を描いたイラスト。昔の日本には1年が13か月になる年があった

昔の日本には、1年が13か月ある年が本当に存在しました。

しかも、それほど珍しい出来事ではありません。江戸時代から明治初期に使われていた暦では、およそ2~3年に一度、1か月が丸ごと追加されていたのです。

たとえば明治3年(1870年)。この年のカレンダーには、現在では見かけない不思議な並びがありました。

10月 → 閏10月 → 11月

10月が終わったのに、すぐ11月になるわけではない。間に「閏10月(うるうじゅうがつ)」という、もうひとつの月が入っていました。

これは暦の間違いでも、特別な事件でもありません。当時の日本で使われていた「太陰太陽暦」という暦の仕組みです。

では、なぜわざわざ1か月増やす必要があったのでしょうか。増えた月はどうやって決まり、人々はどんなカレンダーで暮らしていたのでしょうか。

現在の閏年とはまったく違う、かつての日本の「うるう月」をたどります。

日本には本当に「13か月の年」があった

結論からいえば、実際にありました。

ただし、現在の12月の次に「13月」が登場したわけではありません。1月から12月までのどこかに「閏月(うるうづき)」が挿入される仕組みでした。

仮に4月の後に閏月を入れる年なら、月の並びは次のようになります。

順番通常の年閏4月がある年
1~3番目1月・2月・3月1月・2月・3月
4番目4月4月
5番目5月閏4月
6番目6月5月
7番目以降7月~12月6月~12月
合計12か月13か月

つまり、月の名前は1月から12月まで。その途中に、直前の月と同じ数字を持つ「閏○月」が入るわけです。

現在なら「来月は5月」と考えるところが、当時は「来月は閏4月」という年もありました。

明治3年には本当に「10月」が2つあった

実例として分かりやすいのが、明治3年(1870年)です。

国立天文台によれば、この年は10月の後に閏10月が置かれていました。現在使われているグレゴリオ暦に換算すると、次のようになります。

当時の暦現在の暦に換算
明治3年10月1日1870年10月25日
明治3年閏10月1日1870年11月23日
明治3年11月1日1870年12月22日

当時の10月が始まったのは、現在の暦で10月25日。次の閏10月が始まったのは11月23日。そして、ようやく11月になったのが12月22日です。

現代の感覚で考えると、もう年末が近い時期なのに、暦の上ではまだ11月が始まったばかり。なんとも不思議な話です。

もちろん、当時の人々にとっては正式な暦の日付でした。毎年の暦には閏月の有無や月の並びが示されており、突然知らない月が出現するわけではありません。

出典:国立天文台「旧暦は現在の暦より季節に合っているの?」

なぜ1年に13か月も必要だったのか?

理由は、月の満ち欠けと季節の巡りが、ぴったり一致しないからです。

現在のカレンダーは、地球が太陽の周りを回る周期を基準に作られています。一方、昔の日本で使われていた太陰太陽暦は、月の満ち欠けを使って1か月を決めていました。

月の満ち欠けで数えると、1年は約354日

月が新月になってから、次の新月を迎えるまでの平均的な周期は約29.5日です。

これを12回繰り返すと、約354日になります。

基準およその長さ
月の満ち欠け1周期29.5日
月の満ち欠け12周期354日
季節が一巡する1年365.24日
1年間の差約11日

問題は、この約11日の差です。

もし月の満ち欠けだけで12か月を繰り返すと、翌年の元日は季節に対して約11日早く訪れます。その翌年は約22日、さらに翌年には約33日。

放っておけば、暦の日付と実際の季節はどんどん離れていきます。

春を表していたはずの月が冬に近づき、長い年月がたてば、夏の時期に元日が来ることさえ考えられます。

これでは季節に合わせた年中行事や農作業の目安として、暦を使いにくくなってしまいます。

足りない約11日を「1か月追加」で補っていた

そこで考えられたのが閏月です。

毎年約11日ずつ生まれる差を、ある程度たまったところで1か月分まとめて補正します。

月の満ち欠けを基準にした1か月は29日または30日。これを追加すれば、季節とのズレを小さくできます。

ただし「毎年11日足りないから、3年後に必ず33日分を足す」という単純な規則ではありません。実際には太陽と月の動きに基づく暦法の規則によって、閏月を入れる年と場所が決まっていました。

月の満ち欠けを生かしながら、季節からも大きく外れないようにする。太陰太陽暦は、その両方を成立させるための仕組みだったのです。

閏月は何年に1回あった?毎回同じ月が増えた?

閏月が入る頻度は、平均するとおよそ2~3年に一度です。

古くから知られる目安に「十九年七閏(じゅうきゅうねんしちじゅん)」というものがあります。19年間に7回の閏月を入れると、月の周期と季節の周期をかなり近づけられるという考え方です。

19年に7回なら、平均で約2.7年に一度。つまり13か月の年は、何十年に一度しか訪れないような珍しい年ではありませんでした。

ただし、19年に7回というのは平均的な割合を理解するための目安です。日本で使われたすべての暦が、単純に19年間の決まった位置へ7回挿入する方式だったわけではありません。

「閏2月」「閏8月」など、増える月は毎回違う

現在の閏年では、追加される日は必ず2月29日です。しかし閏月の場合、追加される場所は固定されていません。

国立国会図書館が公開している江戸時代の暦の記録を確認すると、実際にさまざまな閏月が使われていたことが分かります。

年挿入された閏月
元禄2年(1689年)閏1月
元禄4年(1691年)閏8月
元禄7年(1694年)閏5月
元禄10年(1697年)閏2月
元禄12年(1699年)閏9月

わずか11年ほどの間でも、閏月の位置はこれだけ変わっています。

しかも「閏1月」なら通常の1月の後、「閏9月」なら9月の後に入ります。毎回12月の後に追加する方が分かりやすそうですが、暦の仕組み上、そうはいきませんでした。

出典:国立国会図書館「日本の暦・大小暦」

1年が383日や384日になることもあった

13か月あるということは、当然ながら1年の日数も長くなります。

現代の1年は通常365日、閏年でも366日。それに対して昔の太陰太陽暦では、閏月のある年とない年で日数が大きく変わりました。

国立天文台が紹介している江戸時代の暦には、次のような記録が残っています。

年1年の日数閏月
天保12年(1841年)383日閏正月
天保13年(1842年)354日なし
天保14年(1843年)384日閏9月
天保15年(1844年)355日なし

ここで注目したいのが、1842年から1843年への変化です。

1842年は354日だったのに、翌1843年は384日。たった1年で、年間の日数が30日も違います。

そしてその翌年は、また355日に戻っています。

現在の366日を「1日長い年」と感じる私たちからすると、まるで別世界のカレンダーです。

もっとも、1年が長くなったからといって、地球が太陽の周りを回る速度が変わったわけではありません。閏月によって、暦の上で区切る1年間の長さを調整していたということです。

出典:国立天文台暦計算室「二十四節気と暦」

閏月を入れる場所は、どうやって決めていたのか

では、なぜある年には閏1月が入り、別の年には閏10月が入るのでしょうか。

その仕組みを理解する鍵が「二十四節気」です。

二十四節気とは、1年間の太陽の動きをもとに季節を24の区切りで表したもの。立春、春分、夏至、秋分、冬至など、現在でも耳にする名前が含まれています。

太陰太陽暦では月の満ち欠けによって月の区切りを決める一方、こうした太陽の動きを使って、月の名前や閏月の位置も調整していました。

「中気」が入らない月が手掛かりになった

二十四節気は「節」と「中気」に分けられます。

中気には雨水、春分、穀雨、小満、夏至などがあり、月の名前を決める目安として使われてきました。

たとえば、雨水を含む月を正月、春分を含む月を2月、夏至を含む月を5月とする考え方です。

ところが月の満ち欠けによる1か月と、中気から次の中気までの間隔は一致しません。そこで、月の中に中気がひとつも入らない場合があります。

こうした月を閏月にすることが、伝統的な太陰太陽暦の基本的な考え方でした。

ただし、これだけですべての年の閏月が決まるわけではありません。

江戸時代最後の「天保暦」では、さらに複雑なルールがあった

日本で太陽暦への改暦直前まで使われていたのは、天保暦という暦法です。

1844年に施行された天保暦では、太陽の実際の位置を使って二十四節気を決める「定気法」が採用されました。

この方法では、中気の間隔が一定ではありません。そのため、1か月の間に中気が2つ入るような場合も生じます。

そこで天保暦では、冬至を含む月を11月、春分を含む月を2月、夏至を含む月を5月、秋分を含む月を8月とする条件なども加えられました。

つまり、閏月は誰かが気分で決めたものではなく、天体の動きと暦法上の規則に基づいて決められていました。

このルールには、現代まで計算を延長すると解決できない特殊な問題もあります。それが後ほど触れる「2033年問題」です。

参考:国立天文台暦計算室「旧暦2033年問題について」

江戸時代の人々は、13か月のカレンダーをどう使っていた?

昔のカレンダーが現代と違うのは、閏月だけではありません。

太陰太陽暦では、ひと月の日数が29日または30日でした。

30日ある月を「大の月」、29日しかない月を「小の月」と呼びます。

現在なら4月は30日、5月は31日と決まっています。しかし昔は、各月が大の月になるか小の月になるかも年によって変わっていました。

閏月がいつ入るかだけでなく、どの月が29日で終わるのかも、その年の暦を確認する必要があったのです。

毎年のカレンダーを「謎解き」にした文化まであった

そこで江戸時代には、「大小暦(だいしょうれき)」という独特の文化が発達しました。

大小暦は、その年の大の月と小の月の並びを、絵や言葉の中に隠して表現したものです。

国立国会図書館によれば、江戸時代には絵柄や文章を工夫した大小暦が流行し、作品を交換したり、贈り物にしたりすることもありました。

干支の動物や歌舞伎に関連した図柄などを使い、月の大小を遊び心いっぱいに表現していたのです。

現代のカレンダーは、年が変わっても各月の日数はほとんど同じです。しかし当時は毎年の月の並びそのものが変化しました。

だからこそ、新しい年の暦には実用的な価値があり、同時に謎解きの題材として楽しむ余地もあったのでしょう。

国立国会図書館の「大小暦」紹介ページでは、実際に残された江戸時代の作品を見ることができます。数字が並んだ現代のカレンダーとは、まったく違う世界です。

昔の日本では、ずっと同じ旧暦を使っていたのか

ここで、ひとつ注意しておきたいことがあります。

「旧暦」というと、日本で昔からずっと使われていたひとつのカレンダーを想像しがちですが、実際にはそうではありません。

日本では、長い歴史の中で複数の太陰太陽暦が使われ、天体観測や計算方法の発展に合わせて暦法も改められてきました。

江戸時代だけでも、貞享暦、宝暦暦、寛政暦、天保暦と変化しています。

暦法施行開始
貞享暦1685年
宝暦暦1755年
寛政暦1798年
天保暦1844年

いずれも太陰太陽暦ですが、細かな計算方法は同じではありません。

現在、一般に「旧暦」と呼ばれているものは、特に太陽暦への切り替え直前に使われた天保暦を指す場合が多いと国立天文台は説明しています。

そのため、日本の古い暦を調べる場合は、単に「旧暦」とひとまとめにせず、どの時代のどの暦法なのかも重要になります。

日本で13か月の年がなくなったのはいつ?

日本の公的な暦から閏月が姿を消したのは、明治6年(1873年)の太陽暦導入によってです。

明治5年11月9日、政府は太陽暦への切り替えを公布しました。

そして、当時の暦の明治5年12月2日を最後に、翌日を新しい暦の明治6年1月1日としました。

明治5年12月2日(旧暦)

↓ 翌日

明治6年1月1日(新暦)

旧暦なら明治5年12月3日になるはずだった日を、新暦の1873年1月1日としました。

現在の感覚では、12月2日の次が突然1月1日になるという、信じられないほど大胆な変更です。

しかも公布されたのは、旧暦の11月9日。新暦への移行まで、それほど余裕がありませんでした。

国立天文台は、発表から短期間での改暦が混乱を招いたことにも触れています。

これによって日本は、月の満ち欠けを基準にする太陰太陽暦から、太陽の動きを基準にする暦へ切り替わりました。

なお、明治期の改暦は現在のグレゴリオ暦への移行として説明されますが、現行の閏年規則などには後年の法令による整備もあります。現在の暦の仕組みと、当時の布告の文言を完全に同一視しないことも大切です。

改暦の原文と解説は、国立公文書館「太陽暦が採用される」で確認できます。

ちなみに、12月3日の「カレンダーの日」も、この明治改暦に由来しています。記念日の由来については、12月3日は何の日?カレンダーの日と記念日の由来でも紹介しています。

明治政府は「13か月分の給料」を払いたくなかった?

明治改暦には、もうひとつ興味深い背景があります。

それは政府の財政事情です。

国立天文台の資料によれば、従来の太陰太陽暦を使い続けた場合、明治6年には閏月が入り、13か月の年になる予定でした。

当時の明治政府は月給制を採り入れており、13か月の年になれば、その分だけ給与支払いが増えるという問題がありました。

そのため、財政面の事情も改暦を進める背景のひとつだったと説明されています。

ただし、ここで「明治政府は給料を節約するためだけに暦を変えた」と断定するのは正確ではありません。

明治時代は、西洋諸国との外交や貿易が拡大していた時期でもあります。日本と海外で異なる暦を使用していることは、国際的なやり取りにおいて不便でした。

また、季節に対応した太陽暦を採用することには、近代的な制度を整えるという意味もありました。

つまり、明治改暦には国際化や制度整備など複数の背景があり、その中に月給制と閏月に関わる財政事情も存在したということです。

それでも「翌年は13か月になる」という事情が、改暦をめぐる現実的な問題のひとつになっていたのは、なんとも興味深いところです。

出典:国立天文台暦計算室「江戸時代から現在まで」

旧暦は明治6年に完全に消えたわけではない

公的な暦が太陽暦に切り替わったからといって、それまでの暦の文化が突然なくなったわけではありません。

長年使われてきた日付や年中行事の考え方は、その後の生活にも残りました。

実際、明治6年以降に発行された暦にも旧暦の情報は併記されていました。国立天文台の資料によると、旧暦の併記は明治42年暦まで続き、明治43年暦から掲載されなくなっています。

現在でも、太陰太陽暦に由来する行事は日本各地に残っています。

中秋の名月は、今も旧暦の日付で決まっている

身近な例が「中秋の名月」です。

中秋の名月とは、太陰太陽暦の8月15日の夜に見える月のこと。現在のカレンダーで毎年9月15日と決まっているわけではありません。

旧暦の日付と現在の暦の日付は毎年対応が変わるため、中秋の名月の日付も動きます。

さらに、旧暦8月15日だからといって、天文学上の満月と必ず一致するわけでもありません。

実際、2026年の中秋の名月は9月25日ですが、満月は9月27日です。

この違いについては、2026年の中秋の名月はなぜ満月じゃない?9月25日と27日が2日ずれる理由で詳しく解説しています。

旧暦そのものは公的な暦として使われなくなっても、月と日付を結びつける考え方は、今も身近なところに息づいています。

現在でも「閏月」はある?2033年には何が起きる?

2026年現在、日本で公式に使われている暦に閏月はありません。

現在の暦で調整に使われるのは、基本的に2月29日を追加する「閏日」です。

ただし、旧暦の日付を載せたカレンダーや、伝統的な行事のための暦は今でも存在します。

国立天文台によれば、現在の日本には公式な太陰太陽暦の計算制度はありません。そのため、現代の旧暦は、一般に昔の天保暦のルールを現代の天文学的なデータへ準用する形で計算されています。

ここで問題になるのが「旧暦2033年問題」です。

2033年には、昔の規則だけで閏月を決められない

国立天文台暦計算室は、2033年から2034年にかけて、天保暦の規則だけでは月の名前を矛盾なく割り当てられない問題が起こると説明しています。

この時期には、中気が入らない月が複数現れたり、ひとつの月に中気が2つ入ったりする特殊な並びが生じます。

その結果、月の名前の付け方について複数の案が考えられ、昔の規則をすべて満たす形では決められなくなります。

国立天文台が紹介している案にも、閏11月や閏1月など、異なる月の割り当てが示されています。

ただし、これは「2033年に日本のカレンダーが壊れる」という話ではありません。

私たちが普段使っている太陽暦には影響しません。問題になるのは、廃止された天保暦の規則を現代まで延長した場合の旧暦計算です。

昔の暦が想定していなかった特殊な条件に、現代の天文学で気づいた。そう考えると、これも暦の歴史らしい不思議な話といえます。

参考:国立天文台暦計算室「旧暦2033年問題について」

昔の13か月と、現在の閏年は何が違う?

最後に、現在の暦との違いを整理しておきましょう。

比較昔の太陰太陽暦現在の太陽暦
基本の仕組み月の満ち欠けと太陽の動き太陽の動き
通常の1年約354日365日
調整方法閏月を1か月追加閏日を1日追加
調整する年平均して2~3年に一度原則4年に一度(例外あり)
調整する位置暦法の規則で決定2月29日
月の数12か月または13か月常に12か月
日本での公的使用1872年まで1873年から

どちらも、暦と天体の動きとのズレを調整するための仕組みです。

ただ、現在の閏年が1日を追加するのに対し、昔の日本では1か月を追加していました。

そのため、閏月が入る年は本当に13か月になり、1年が380日以上になることもあったのです。

まとめ|「13月」はなかったが、13か月の年は実在した

日本に「13月」という名前の月はありませんでした。しかし、閏月を加えて1年が13か月になる年は、実際に何度も存在しています。

明治3年には10月の後に閏10月が置かれ、天保14年には1年が384日もありました。

こうした仕組みが必要だったのは、月の満ち欠けだけで12か月を数えると、季節に対して毎年約11日ずつずれていくためです。

明治6年の太陽暦導入によって、日本の公的なカレンダーから閏月は姿を消しました。それでも、中秋の名月や伝統的な年中行事には、今も太陰太陽暦の考え方が残っています。

毎年同じように12か月が並ぶカレンダー。私たちにとっては当たり前ですが、昔の日本では、その当たり前が少し違っていました。

10月の次に、もう一度10月が来る。

そんな年が確かにあったと思うと、何気なく眺めているカレンダーも、ちょっと違って見えてきます。

主な参考資料

-つぶログ深掘り
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