- PS3はなぜ病気研究に使われた?Folding@homeと米空軍スーパーコンピュータの歴史
- ゲームを終えたPS3は「研究用コンピュータ」に変わった
- PS3はいったい何を計算していたのか
- なぜゲーム機のPS3が科学計算でこれほど強かったのか
- PS3参加から1か月で計算能力は2倍以上になった
- 1ペタFLOPSは二段階だった――最初は全体、その後PS3群だけでも突破
- PS3は医学研究に何を残したのか
- 140万人と1500万人は、同時に動いていたPS3の台数ではない
- 2008年、Folding@homeは「Life with PlayStation」へ組み込まれた
- そして米空軍はPS3を本当に大量に並べた
- 米空軍のPS3は1,716台、1,760台、それとも2,016台?
- なぜ軍の研究所が市販ゲーム機を買ったのか
- Condor Clusterは何に使われた?
- PS3スーパーコンピュータ最大の弱点は「交換用PS3」だった
- 米空軍だけがPS3を研究に使ったわけではない
- CellはPS3だけの技術でもなかった
- 2012年、PS3版Folding@homeは終了した
- Folding@homeは2026年現在も続いている
- PS3は「スーパーコンピュータだった」のか
PS3はなぜ病気研究に使われた?Folding@homeと米空軍スーパーコンピュータの歴史

夜、ゲームを終える。ところがPS3の電源は、そのまま切らない。
設定しておけば、しばらく操作しなかったPS3が自動的にFolding@homeを起動し、Stanford Universityから届いた計算を始める。画面を消しても構わない。世界のどこかにある別のPS3も、それぞれ別の計算を進めている。
2007年、実際にそんな使い方ができました。
ただし「PS3が病気を診断していた」「アルツハイマー病の治療薬をPS3が発見した」という話ではありません。正確には、PS3に搭載されたCell Broadband Engineの計算能力を、タンパク質などの分子シミュレーションへ提供していたのです。
しかも話は家庭のリビングだけでは終わりません。数年後、米空軍研究所は市販のPS3を大量に集め、約500TFLOPS級のスーパーコンピュータ「Condor Cluster」を構築します。
先に結論を整理すると、PS3と科学計算の歴史には別々の二つの話があります。 Folding@homeは、世界各地の家庭にあるPS3へ小さな計算を配る「分散コンピューティング」です。一方のCondor Clusterは、米空軍研究所が大量のPS3を一か所へ集めた物理的な計算クラスターでした。
共通していたのは、PS3そのものがスーパーコンピュータだったことではなく、Cell Broadband Engineという特殊な並列プロセッサを大量に利用できたことです。
ゲームを終えたPS3は「研究用コンピュータ」に変わった
Folding@homeはPS3のために作られたものではない
Folding@homeは、PS3と同時に始まったプロジェクトではありません。Stanford UniversityのVijay S. Pande氏らの研究グループが2000年10月に開始した分散コンピューティング計画で、PS3が参加する以前からWindowsやLinuxなどのPCが計算を担っていました。
さらにFolding@homeでは、PS3登場前の2006年にGPUクライアントも導入されています。つまりSonyがFolding@homeを作ったわけでも、PS3が最初の計算機だったわけでもありません。
その既存ネットワークへ、2007年に新しく加わった強力な計算装置がPS3でした。
PS3版が実際に使えるようになったのは2007年3月22日
Sony Computer Entertainmentは2007年3月15日にPS3のFolding@home参加を発表し、3月22日にはPS3システムソフトウェアVersion 1.60とともに利用できるようになりました。その後のSCE公式発表でも、PS3の参加開始日は「March 22, 2007」とされています。
このため「3月15日」と「3月22日」の両方が資料に現れますが、15日は発表、22日は一般ユーザーが実際に利用を始めた日と整理するのが自然です。
ユーザーはXMBの「ネットワーク」からFolding@homeを選び、アプリケーションを起動しました。参加は強制ではなく、自分のPS3の計算能力を研究へ提供したい人だけが参加する仕組みです。
「ゲームをしていない間」とは、電源OFFのことではない
ここは現在でも誤解されやすいところです。PS3の電源を切っていても勝手に計算してくれたわけではありません。
2007年4月のSCE公式発表では、アイドル状態になったPS3からFolding@homeを自動実行する設定が用意されており、この機能は初期設定ではOFFでした。さらに同年12月のPlayStation.Blogでは、「idle time detection」を10分などに設定すると、一定時間PS3を操作しなかった場合に自動起動できることが具体的に説明されています。
| 状況 | Folding@homeは動く? | 補足 |
|---|---|---|
| PS3の電源OFF | 動かない | 公式Tipsでも、電源を切ればFoldingは行われないと明記 |
| ゲーム終了後、PS3を電源ONのまま放置 | 設定により自動起動可能 | idle time detectionを利用 |
| テレビだけ電源OFF | 計算可能 | テレビをつけ続ける必要はない |
| ゲームをプレイ中 | 同時に計算する仕組みではない | 公式Tipsはゲームを終了してPS3を電源ONのままにするよう案内 |
| インターネット接続 | データ受信・返送時に必要 | 2007年の公式Tipsではネットワークアクセスは1日2~3回程度と説明 |
つまり「寝ている間」「外出している間」「ゲームをしていない時間」に計算能力を貸せた、という意味です。PS3を動かしている電力そのものは参加者が負担しました。
PS3はいったい何を計算していたのか
タンパク質は「アミノ酸の鎖」のまま働くわけではない
人間の体内で働くタンパク質は、アミノ酸がつながった鎖として作られます。しかし、そのまま一直線に漂っているわけではありません。周囲の環境や原子同士の力を受けながら折れ曲がり、複雑な三次元構造を取ります。
タンパク質が何をするかを理解するには、完成した静止画のような「形」だけでは足りません。どのように形を変えるのか、途中でどんな状態を通るのか、ほかの分子とどう相互作用するのかという動きまで追う必要があります。
正常な構造形成がうまくいかなかったり、異常なタンパク質同士が集まったりする現象は、アルツハイマー病、パーキンソン病、ハンチントン病など多くの研究テーマと関係しています。Folding@homeは、こうした分子の運動をコンピュータ上で再現する分子動力学シミュレーションなどへ、膨大な計算能力を投入してきました。
PS3が「病気の原因を検索していた」のではありません。原子や分子が時間とともにどう動くのかを大量に計算し、研究者が解析できるデータを作る役割を担っていたのです。
一台のPS3に届くのは巨大な研究課題の一部分
世界中のPS3同士が直接つながって一つの巨大メモリを共有していたわけでもありません。中央側で大きな計算を細かなWork Unitへ分け、それぞれの参加機器へ配ります。
PS3が研究に参加する流れ
Stanford University側のサーバー
↓ 計算するデータを配布
インターネット
↓
家庭のPS3がWork Unitを受信
↓
Cell Broadband Engineでシミュレーション
↓
計算結果をサーバーへ返送
↓ 次のWork Unitへ

一台のPS3が研究対象のタンパク質すべてを最初から最後まで解き切る、という構造ではありません。大量の参加機器が、それぞれ担当する計算を進めることで全体として大きなシミュレーションを成立させます。
「世界中のPS3が一台の巨大スーパーコンピュータになった」という表現は、この仕組みを直感的に説明する比喩としては使えます。ただし技術的には、一か所に置かれたスーパーコンピュータではなく、インターネット越しの分散コンピューティングです。
なぜゲーム機のPS3が科学計算でこれほど強かったのか
Cell Broadband Engineは普通のPC用CPUとはかなり違った
PS3の中心にあったのがCell Broadband Engine、通称Cell/B.E.です。CellはSony、東芝、IBMによる共同開発で、IBMの技術資料では一つのPower Processing Element(PPE)と8つのSynergistic Processing Element(SPE)を組み合わせた構造として説明されています。
PPEは比較的一般的なCPUに近い制御役を担い、SPEは大量の数値データを並列に処理することを得意とします。各SPEには256KBのLocal Storeがあり、データを明示的に転送しながらSIMD型のベクトル演算を行う、かなり癖の強い設計でした。
PS3向けCellは3.2GHzで動作し、Cell自体の設計上は8基のSPEを持っています。ただしPS3では製造歩留まりのため1基を無効化し、さらに1基をシステム側の処理へ確保する構成が採られたため、一般のアプリケーションから利用できるのは通常6基でした。
「8基あるのか、6基なのか」という説明がネット上で割れるのはこのためです。チップの基本設計は8基、PS3上で通常利用できる計算資源は6基、と分ければ矛盾しません。
PS3のGPUがFolding@homeを計算していたわけではない
PS3にはRSXという別のグラフィックスプロセッサも搭載されています。しかしPS3版Folding@homeで主役になったのはRSXではなくCellです。
2007年のPlayStation.Blogでも、計算コアをSPU上で動かしていることや「CELL processor is actually doing the Folding job」と説明されています。PC版Folding@homeにGPUクライアントが存在したこととは、別の話です。
分子動力学とCellの得意分野がかみ合った
Cellは、すべてのプログラムを自動的に高速化する万能CPUではありませんでした。小さなLocal Storeへデータを運び、SPEへ仕事をうまく分配する必要があり、ソフトウェア側の最適化にはかなりの手間がかかります。
一方で、同種の数値計算を大量に繰り返せる処理では、その並列性を生かせます。2009年にFolding@homeチームとSonyの開発者らが発表した論文「Accelerating Molecular Dynamic Simulation on the Cell processor and PlayStation 3」では、特にストリーミング処理と相性の良い分子動力学計算をCellへ最適化する方法が詳しく検討されました。
Folding@home公式は、この論文を「PS3を使った最初の論文」と紹介しています。つまり少なくともここでは、「PS3が本当に研究用の分子シミュレーション計算へ使われた」ことを論文レベルで確認できます。
PS3参加から1か月で計算能力は2倍以上になった
PS3の参加効果は、かなり早い段階から数字に現れました。
SCEが2007年4月26日に公表したデータでは、PS3版開始から約1か月で25万人を超えるユニークPS3ユーザーが登録。PS3ユーザーだけで約400TFLOPSを供給し、Folding@home全体では瞬間的に700TFLOPSを超えました。
これはPS3参加前のネットワーク全体の計算能力の2倍以上です。Stanford側のVijay Pande氏も、PS3参加後の数週間で、それまで1年以上かかるようなシミュレーションを進められたとSCEの発表で述べています。
| 時期 | 出来事 | 確認できる数字 |
|---|---|---|
| 2007年3月22日 | PS3版Folding@home提供開始 | PS3が分散計算へ正式参加 |
| 2007年4月 | 参加から約1か月 | 25万人超登録、PS3約400TFLOPS、全体700TFLOPS超 |
| 2007年9月16日 | Folding@home全体が1ペタFLOPS突破 | 分散コンピューティングとして歴史的な節目 |
| 2007年9月23日 | PS3群だけでも1ペタFLOPS突破 | SCEI正式発表による |
| 2007年9月25日の統計 | PlayStation.BlogがPS3群の統計を紹介 | 41,145参加者、1,020TFLOPS |

1ペタFLOPSは二段階だった――最初は全体、その後PS3群だけでも突破
ここはPS3とFolding@homeを扱う記事で、もっとも間違えやすい数字です。
最初に1ペタFLOPSを突破したのは、PS3だけではありません。SCEIの2007年10月31日付正式リリースでは、2007年9月16日にFolding@home全体が1ペタFLOPS、つまり毎秒10の15乗回の浮動小数点演算に相当する規模を突破したとされています。
このネットワークにはPS3だけでなくPCなどほかの計算機も参加していました。この到達を受け、Folding@homeはGuinness World Recordsから「世界で最も強力な分散コンピューティングネットワーク」と認定されています。
ところが、その後にもう一段あります。
SCEIの同じ正式発表によれば、2007年9月23日にはPS3ユーザーが提供する計算能力だけでも1ペタFLOPSへ到達しました。 さらに9月25日のPlayStation.Blogには、Stanfordの統計として41,145参加者のPS3が1,020TFLOPSを供給していたスナップショットが掲載されています。
したがって、「PS3だけで1ペタFLOPSを出したことはない」とするのも正確ではありません。正しくは、最初の1ペタFLOPS到達はFolding@home全体。その約1週間後には、世界中の参加PS3を合計した計算能力だけでも1ペタFLOPSへ到達した、となります。
もちろん、一台のPS3が1ペタFLOPSを出したわけではありません。
なお、Guinness記録の日付についてPlayStation.Blogの後年の記事には9月19日とする記述もあります。一方、SCEIの2007年10月31日付正式プレスリリースは最初の記録を9月16日、PS3群単独の1ペタ到達を9月23日と明記しているため、本稿では正式リリースの日付を基準にしています。
「当時世界最速のスーパーコンピュータを超えた」とは単純に言えない
1ペタFLOPSという数字だけを見ると、当時の大型スーパーコンピュータと直接順位を付けたくなります。しかし、そこには測定方法の問題があります。
TOP500でスーパーコンピュータを比較するときに使われるLINPACK性能と、Folding@homeが実際の分散計算で集計したFLOPSは同じベンチマークではありません。理論ピーク性能、単精度・倍精度、実際のアプリケーション性能も区別が必要です。
そのため「PS3ネットワークが当時の世界最速スーパーコンピュータを性能で抜いた」と単純化するのは避けるべきでしょう。確実に言えるのは、家庭や職場に分散していた計算機を束ねたFolding@homeが、分散コンピューティングとして1ペタFLOPS級へ到達したということです。
PS3は医学研究に何を残したのか
「PS3がアルツハイマー病を治した」わけではない
計算量が増えれば、それだけで新薬が完成するわけではありません。シミュレーションから仮説を作り、実験で確かめ、さらに長い研究を重ねる必要があります。
Folding@homeではPS3参加期間にも、アルツハイマー病と関係するアミロイドβなどを対象とした研究成果が発表されました。2008年には、アミロイドβが集まっていく過程をMarkov state modelで解析した論文「Simulating oligomerization at experimental concentrations and long timescales」が発表されています。
ただし、この論文を「PS3が計算した論文」と断定するのは慎重であるべきです。Folding@home全体を使った研究であることは確認できますが、公開された論文だけから、その計算のうち何割をPS3クライアントが担当したかを切り分けることはできません。
PS3との直接関係を確認できる論文は2009年にある
一方、2009年の「Accelerating Molecular Dynamic Simulation on the Cell processor and PlayStation 3」は、題名どおりPS3のCellで分子動力学計算を高速化する方法そのものを扱っています。Folding@home公式も、これを同プロジェクトでPS3を利用した最初の論文として紹介しました。
「PS3が生命科学計算に使われた」という事実を論文ベースで示すなら、この研究は非常に分かりやすい証拠です。
2012年のβアミロイド研究は「PS3が薬を発見した」とは読まない
PS3版終了時、Pande氏が具体的な成果として取り上げたのが2012年のJournal of Medicinal Chemistry論文「Design of β-Amyloid Aggregation Inhibitors from a Predicted Structural Motif」です。
この研究では、以前の分子動力学シミュレーションから得られた構造上の予測を基に、アミロイドβの凝集を抑えるためのペプチドや化合物を実験的に検討しました。論文そのものも、分子動力学シミュレーションが実験研究を導く例を示しています。
PlayStation.BlogのPS3版終了告知でPande氏は、以前のFolding@homeシミュレーションから得た予測を実験で検証し、アルツハイマー病研究の新しい方向につながったと説明しました。
ただし原著論文から「この特定の計算はPS3何台で処理された」と追跡できるわけではありません。したがって、この成果は「Folding@homeを利用した研究成果で、PS3ユーザーが同プロジェクトへ大きな計算資源を提供していた」と表現するのが適切です。「PS3がアルツハイマー病の薬を発見した」ではありません。
140万人と1500万人は、同時に動いていたPS3の台数ではない
SonyのCSR Report 2008には、世界で140万人を超えるPS3ユーザーがFolding@homeへ参加したと記されています。一方、2012年のPlayStation公式終了告知では、2007年の開始以来「1500万人以上のユーザー」が参加したと説明されました。
ここから「1500万台のPS3が同時にFolding@homeを動かしていた」と解釈することはできません。
累計の参加ユーザー数、一度でも登録したユーザー、その瞬間に計算している参加機器は別の数字です。実際、2007年9月25日にPS3群が1,020TFLOPSを出していた統計では、参加者数は41,145と表示されていました。
数字の規模を紹介するときは「1500万人以上が累計で参加したとPlayStationが発表」とするのが安全です。
PS3ユーザーが提供した計算時間は1億時間を超えた
2012年の終了発表では、PS3ユーザーがFolding@homeへ提供した計算時間は合計1億時間以上とされています。
1億時間を一台のコンピュータが休まず計算し続けた時間へ単純換算すると、およそ1万1400年分です。もちろん実際には、それだけの時間を世界中の多数のPS3が並列に分担しました。
この数字こそ、Folding@homeにおけるPS3の意味をよく表しています。一台のPS3が途方もなく速かったというより、家庭用ゲーム機として大量に普及した同じ設計の計算資源を、多数の人が研究へ持ち寄れたことが大きかったのです。
2008年、Folding@homeは「Life with PlayStation」へ組み込まれた
PS3で見覚えのある人が多い「地球儀」の画面は、途中からLife with PlayStationへ発展していきます。
北米PlayStation.Blogは2008年9月17日、Life with PlayStationの提供開始を発表しました。インタラクティブな地球儀を使って世界各地の天気やニュースなどを確認でき、Folding@homeの計算も並行して実行する仕組みです。
したがって「Folding@home=Life with PlayStation」ではありません。2007年にFolding@home単独で始まり、2008年にLife with PlayStationへ統合された、という順番です。
Folding@homeの画面には計算対象の分子表示や世界各地の参加地点を示す表示もありました。SCEの資料によれば、参加地点はIPアドレスから得た位置情報を使っていました。個々の参加者の住所をGPSのように正確に公開していた、という意味ではありません。
そして米空軍はPS3を本当に大量に並べた
世界中の家庭から計算能力を集めるFolding@homeとは別に、PS3そのものを一つの施設へ集めた研究機関もありました。
もっとも有名なのが、米ニューヨーク州ロームにあるAir Force Research Laboratory(AFRL)Information Directorateの「Condor Cluster」です。
| Folding@home | Condor Cluster | |
|---|---|---|
| 場所 | 世界中の家庭など | AFRLの一施設 |
| 接続方法 | インターネット越しの分散計算 | 大量の機器を物理的にクラスタリング |
| 主な目的 | 生命科学・分子シミュレーション | 画像処理、レーダー、計算知能など |
| PS3のOS | PlayStation公式アプリ | Other OS機能を利用したLinux |
| 共通点 | Cell Broadband Engineの並列計算能力を利用 | |

Condor Clusterは「PS3だけの500TFLOPSマシン」ではない
AFRLが2010年12月1日の披露時に発表した構成は、「1,760 Sony PlayStation 3 processors」と168基のGPGPUでした。さらに84台のデュアル6コア構成のヘッドノードがあり、それぞれがPS3群を制御すると説明されています。
システム全体の性能は約500TFLOPS。費用は約200万ドルでした。
重要なのは、500TFLOPSが「PS3 1,760台だけの性能」と公式発表されているわけではないことです。CondorはPS3、GPGPU、通常のサーバーを組み合わせたheterogeneous supercomputer、異種混在型スーパーコンピュータでした。
米空軍のPS3は1,716台、1,760台、それとも2,016台?
Condor Clusterを紹介する記事では「PS3を1,760台使った」と一つの数字に固定されがちですが、米空軍自身の資料を調べると数字が一致しません。
| 米空軍系一次資料 | PS3の数字 | 記述 |
|---|---|---|
| AFRL/Air Force Materiel Command 2010年披露資料 | 1,760 | 「Sony PlayStation 3 processors」と表記 |
| U.S. Air Force 2010年12月6日記事 | 1,716 | 「Sony PlayStation 3 game consoles」と表記 |
| AIRMAN Magazine 当事者インタビュー | 2,016 | 追加資金でクラスターを2,016台まで拡張したと説明 |
| 同じAIRMAN Magazine | 336 | 初期実証段階。53TFLOPSを達成したと当事者が説明 |
AIRMAN MagazineのMark Barnell氏らの説明では、まず約30万ドルを使って市販PS3を購入し、336台で53TFLOPSを実証。その後、国防総省のHigh Performance Computing Modernization Programから追加資金を得て、2,016台・500TFLOPS規模へ拡大したとされています。
一方、披露時のAFRL正式リリースは1,760、別のAir Force公式記事は1,716です。購入総数、設置数、実際に稼働していた台数、予備機、時点の違いなどが考えられますが、それを完全に対応付ける一次資料は確認できません。
そのため「米空軍は正確に1,760台だけ使った」と断定するより、「約1,700~2,000台規模のPS3を使った大型クラスターで、公式資料によって台数表記が異なる」とするのが最も正確です。
なぜ軍の研究所が市販ゲーム機を買ったのか
理由は「ゲーム機だから」ではなく、価格性能比だった
PS3は研究機関向けの専用計算機として売られていたわけではありません。むしろ、そこにCondor Clusterの面白さがあります。
家庭用ゲーム市場では、巨大な研究開発費を投じたハードウェアを何百万台も販売する前提があります。そのため、高性能なプロセッサを研究機関が同等の専用品として一から調達するより、市販製品として安く入手できる場合がありました。
AFRLもこの点を明確に挙げています。Condor Clusterの総費用は約200万ドルで、同等能力を得るシステムより10~20倍のコスト節約になると説明しました。
別のAir Force公式記事では、比較できるスーパーコンピュータの価格を5000万~8000万ドル程度とする担当者発言も掲載されています。比較条件や得意とする処理が同一ではないため単純な価格表にはできませんが、AFRLがPS3を選んだ大きな理由が価格性能比だったことははっきりしています。
消費電力も「同じ計算能力を得るシステム」として評価された
AFRLの披露資料では、Condorが同等のスーパーコンピュータと比べて10分の1未満の電力を消費すると説明されています。別の米空軍資料では約15分の1という表現も見られます。
これは「家庭でPS3一台を動かせば低消費電力」という話ではありません。一定規模の計算能力を実現するシステム全体を比較したときの評価です。
Condor Clusterは何に使われた?
2010年のAFRL公式発表で挙げられていた初期研究には、neuromorphic artificial intelligence、synthetic aperture radarの高度化、画像処理、pattern recognitionなどがあります。
別のAir Force公式記事では、文字認識や欠落した情報を推測して補うcomputational intelligenceの研究も紹介されています。
軍の研究所が作ったシステムだからといって、PS3が直接兵器を制御していたなどと広げることはできません。公開資料で確認できるのは、レーダー・画像・パターン認識・計算知能といった大量の並列計算を必要とする研究用途です。
PS3スーパーコンピュータ最大の弱点は「交換用PS3」だった
初期型PS3にはLinuxを動かせるOther OS機能があった
Condor Clusterを成立させた条件の一つが、初期型PS3に用意されていた「Install Other OS」機能でした。PS3へLinuxなど別のOSを導入できたため、研究者はCellを科学計算用のノードとして利用できました。
ところが2009年9月に登場した薄型PS3では、このOther OS機能が搭載されませんでした。
さらにSony Computer Entertainmentは2010年4月1日、従来型PS3向けシステムソフトウェアVersion 3.21で「Install Other OS」を無効化します。PlayStation.Blogで示された理由は「security concerns」でした。
修理に出すとクラスターへ戻せなくなる
AIRMAN Magazineに掲載されたCondor担当者の証言には、この仕様変更が研究現場でどんな問題を生んだかが具体的に残っています。
Condorで利用できるのはLinuxを動かせる特定世代のPS3でした。そのPS3が故障して修理へ出ると、新しいシステムソフトウェアへ更新された状態で戻ってくるため、Linuxを動かせずCondorへ戻せなくなるというのです。
担当者は使用可能なモデルを見つければ購入し、予備機も確保していたと説明しています。それでも壊れたものからクラスターから外していくしかありませんでした。
数百万ドル規模のスーパーコンピュータでありながら、長期運用上の弱点の一つが「互換性を保った交換用の市販ゲーム機をもう簡単には手に入れられない」ことだったわけです。
Other OS削除でFolding@homeが終わったわけではない
ここでも二つのPS3利用法を混同してはいけません。
Condor Clusterなどの研究用途はOther OS上のLinuxを利用しました。一方、Folding@homeはXMBから起動するPlayStation公式アプリとして提供されており、Other OSを必要としていません。
Other OSが削除されたのは2010年。PS3版Folding@homeはその後も2012年まで続いています。
米空軍だけがPS3を研究に使ったわけではない
大学にもPS3を大量利用した例があります。University of Rhode Islandの公式「PlayStation 3 Gravity Grid」ページでは、SonyとAFRLからの一部寄付を含む400台超のPS3クラスターを保有していたことが現在も確認できます。
研究ではブラックホール合体に伴う重力波計算などへCellを利用し、16台のPS3をMPIで結んだ計算も行われました。同大学は、そのクラスターを使った複数の研究論文も公開しています。
ここでSonyからの寄付が確認できるのは大学側のGravity Gridです。これを根拠に「Sonyが米空軍のCondor用PS3を大量寄付した」と読み替えることはできません。Condorについて米空軍の資料は市販のoff-the-shelf製品を調達したと説明しています。
CellはPS3だけの技術でもなかった
Cell Broadband Engineという名前からPS3専用プロセッサのように見えますが、Cell系アーキテクチャはほかの高性能計算機にも使われました。
IBMはCell搭載のBladeCenter製品を展開し、Los Alamos National Laboratory向けの「Roadrunner」では、x86-64系ホストプロセッサとIBM PowerXCell 8iを組み合わせたハイブリッド構成が採用されています。
PowerXCell 8iはCell Broadband Engineアーキテクチャを発展させたHPC向け実装です。
したがって「RoadrunnerもPS3を大量に使っていた」という説明は誤りです。同じ技術的な血筋を持つCell系プロセッサが使われていただけで、市販のPS3本体をラックへ並べたCondor Clusterとは別物です。
2012年、PS3版Folding@homeは終了した
2012年10月、Sony Computer EntertainmentはPS3システムソフトウェアVersion 4.30の提供とともに、Life with PlayStationを新規ユーザーへ提供しなくすることを発表しました。
PlayStation側の発表ではサービス終了を「11月初旬」と案内し、現在のFolding@home公式タイムラインではPS3クライアントの終了日を2012年11月6日としています。
終了時点でPlayStationは、PS3版開始以来1500万人以上のユーザーが参加し、合計1億時間を超える計算時間を提供したと発表しました。
終了理由について、公式発表は「Stanford Universityとの協議の結果、終了を決めた」としています。「参加者が減ったから」「PS3が遅くなったから」「GPUに負けたから」といった一つの理由を公式見解として断定することはできません。
Pande氏がPS3を「game changer」と呼んだ理由
終了時、Vijay Pande氏はPS3をFolding@homeにとって「game changer」だったと振り返りました。
その意味は、PS3がすべてのコンピュータより速かったということではありません。新しい種類のプロセッサへ計算を最適化する方法を開拓し、その経験が後のGPU利用にもつながったという文脈です。
Folding@homeはPS3以前から存在し、GPUクライアントもすでに登場していました。それでも、同一仕様の高性能並列プロセッサが世界中の一般家庭へ大量に存在し、それを研究へ参加させられたPS3は、プロジェクトにとって特別な計算基盤でした。
Folding@homeは2026年現在も続いている
PS3版は2012年で終わりましたが、Folding@homeそのものは終了していません。
2026年9月現在も公式クライアントが公開されており、Windows、macOS、Linux、ARM Linuxなどに対応しています。現行公開版として案内されているのはv8.5.6です。
研究対象も、がん、感染症、アルツハイマー病・パーキンソン病・ハンチントン病などの神経疾患へ広がっています。現在はUniversity of PennsylvaniaのGreg Bowman氏をディレクターとする研究コンソーシアム型の体制で運営されています。
2020年にはCOVID-19関連研究への参加が急増し、Folding@home公式自身が一時「史上初のexaflop computer」を構成したと振り返る規模にまで成長しました。
計算を提供するハードウェアは変わっても、多数の人が余っている計算能力を持ち寄り、一つの研究へ使うという発想はPS3時代の後も続いています。
PS3は「スーパーコンピュータだった」のか
一台のPS3を指して「スーパーコンピュータだった」と言うのは正確ではありません。
PS3に搭載されたCellには、特定の並列数値計算で高い性能を引き出せる性質がありました。しかしメモリ容量やデータ転送、プログラミングの難しさなど制約も多く、あらゆる処理で当時の大型計算機を圧倒したわけではありません。
PS3の特殊性は別のところにあります。
高価な研究用計算機なら限られた施設にしかありません。しかし家庭用ゲーム機なら、同じプロセッサを積んだ何百万台もの機械が世界中のリビングへ置かれます。
一台一台は家庭用ゲーム機。それでも使っていない時間の計算能力をネットワーク越しに集めれば、分散計算としてペタFLOPS級へ届く。研究施設が同じゲーム機を大量購入すれば、低コストの計算クラスターにもなる。
2007年、家庭ではゲームを終えたPS3がStanford Universityから送られた分子計算を処理していました。2010年、米空軍研究所では同じゲーム機がラックへ大量に並べられ、レーダーや画像処理などの研究を担いました。
現在なら、その役割の多くを高性能GPUやクラウド、専用のHPCシステムが担います。
それでも、家庭用ゲーム機の計算能力を世界規模の科学研究へ参加させ、さらに同じハードを研究機関がスーパーコンピュータの部品として大量購入した時代が実際にありました。
PS3のCellが残した技術史を振り返るなら、「一台のゲーム機がスーパーコンピュータだった」という話ではありません。スーパーコンピュータ級の計算資源になり得る並列処理能力を持つ機械が、家庭用ゲーム機として世界中へ大量にばらまかれた。 そこに、この時代ならではの面白さがあります。