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バンダイはなぜ「ワンダースワン」を作った?任天堂一強の携帯ゲーム機市場へ挑んだ理由

目次
  1. バンダイはなぜワンダースワンを作った?横井軍平と4,800円携帯機の戦略
  2. 先に結論|ワンダースワンは「横井軍平が任天堂へ復讐するために作ったハード」ではない
  3. ワンダースワン以前から、バンダイは何度もゲーム機を作っていた
  4. 横井軍平とバンダイは、どうして組むことになったのか
  5. 本当に最初から「ゲームボーイ対抗機」だったのか
  6. ワンダースワンがゲームボーイカラー誕生のきっかけになった?
  7. 「任天堂一強」の市場へ出たとき、ゲームボーイは再び勢いを取り戻していた
  8. なぜ1999年なのにモノクロ液晶だったのか
  9. 4,800円はどれほど安かったのか
  10. 縦でも横でも遊べる――ワンダースワン独自の操作方法
  11. 「枯れた技術の水平思考」で作られたハードなのか
  12. 発売日のソフトは4本|バンダイだけのゲーム機ではなかった
  13. スクウェア参入と『ファイナルファンタジー』は何を変えたのか
  14. なぜわずか1年9か月でワンダースワンカラーを出したのか
  15. 『ファイナルファンタジー』でワンダースワンは復活したのか
  16. ゲームボーイアドバンス登場で競争はどう変わったのか
  17. ワンダースワンはいつ終わったのか
  18. シリーズ350万台は何を意味するのか
  19. ワンダースワンは成功だったのか、失敗だったのか
  20. よくあるワンダースワンの説明を整理すると
  21. ワンダースワンから見える「バンダイという会社」
  22. 横井軍平の発想をさらに追いたいなら
  23. まとめ|バンダイはなぜワンダースワンを作ったのか

バンダイはなぜワンダースワンを作った?横井軍平と4,800円携帯機の戦略

4,800円の挑戦の文字と単3形乾電池1本、縦横両持ちの携帯ゲーム機を描いたワンダースワン記事のイラスト

1999年3月4日、バンダイは携帯ゲーム機「ワンダースワン」を発売しました。

価格は4,800円。前年の1998年10月には、すでに任天堂の「ゲームボーイカラー」が登場しています。それでも初代ワンダースワンが選んだのはモノクロ液晶でした。

その代わり、本体は小さく軽く、単3形アルカリ乾電池1本で約30時間動く。さらに本体を横にも縦にも持って遊べるという、ほかの携帯ゲーム機とはかなり違う設計でした。

開発には、任天堂でゲーム&ウオッチやゲームボーイに携わった横井軍平氏も参加しています。

こうした経歴だけを並べると、「ゲームボーイを生んだ横井軍平が任天堂を離れ、今度はバンダイと組んでゲームボーイへ挑戦した」という物語に見えます。

ところが、当事者の証言まで追うと、ワンダースワンの誕生はそれほど単純ではありません。

元任天堂の岡田智氏によれば、1997年にはバンダイから任天堂へ、開発中だったワンダースワンの販売を担当してほしいという打診まであったといいます。

一方、元バンダイ社長の山科誠氏は後年、ワンダースワンについて「任天堂に追いつき追い越せ」という方針だったと振り返っています。

最初から完全な敵対関係だったのか。途中で事業の意味が変わったのか。それとも複数の可能性を探りながら商品化が進んだのか。

この記事では「ゲームボーイに負けた携帯ゲーム機」という結果から逆算せず、バンダイがなぜワンダースワンを作ったのか、横井軍平氏と株式会社コトはどこまで関わったのか、なぜ1999年に4,800円のモノクロ機を投入したのか、そしてカラー化から撤退まで何が起きたのかを順番に追っていきます。

先に結論|ワンダースワンは「横井軍平が任天堂へ復讐するために作ったハード」ではない

確認できる資料から先に結論をまとめると、ワンダースワン誕生の背景として最もはっきりしているのは、バンダイ側に以前から「自社のオリジナルゲームハードを持ちたい」という志向があったことです。

バンダイはワンダースワンで突然ゲーム機事業へ参入した会社ではありません。

1970年代後半のTV JACKから、インテレビジョン、アルカディア、光速船、プレイディア、ピピンアットマークまで、形は違っても何度もゲーム・デジタル機器へ挑戦してきました。

元社長の山科誠氏も後年、オリジナルのゲームハードを作りたいという考えを長く持っていたことを明かしています。

そこへ1996年、任天堂を退社した横井軍平氏が株式会社コトを設立。バンダイ側から開発協力を依頼され、ワンダースワンのプロジェクトに加わりました。

そのため、出発点を

「横井軍平がゲームボーイを倒すために作ったハード」

とするより、

「長年、自社ゲームハードを持とうとしてきたバンダイが、横井軍平氏らの参加を得て携帯ゲーム機へ再挑戦した」

と考える方が、現在確認できる資料には合っています。

もちろん、実際に発売されたワンダースワンはゲームボーイと同じ携帯ゲーム機市場で競争しました。任天堂が最大の競合だったことも間違いありません。

ただし、「競争した」という結果と、「最初から任天堂だけを敵として企画された」という開発動機は別です。

ワンダースワン以前から、バンダイは何度もゲーム機を作っていた

なぜ玩具メーカーのバンダイが、わざわざ自社の携帯ゲーム機を作ったのか。

この疑問を解くには、1999年からではなく、もっと前まで戻る必要があります。

バンダイは1970年代後半から家庭用ゲーム機や電子ゲームへ進出し、1980年代にもインテレビジョン、アルカディア、光速船などを展開しました。

ファミコン時代以降はソフトメーカーとしても存在感を強めましたが、「自社でハードを持つ」という試み自体が消えたわけではありません。

1994年には子ども向けのCD-ROMゲーム機「プレイディア」を発売。1996年にはAppleと組んだ「ピピンアットマーク」も投入しています。

長期間市場を支配するプラットフォームへ育ったものはありません。それでも、バンダイはハード事業へ何度も戻ってきました。

山科誠氏が持っていた「オリジナルハード」への思い

4Gamerによる山科誠氏へのインタビューでは、山科氏が以前から「オリジナルのハードウェア、ゲーム機を作りたかった」という趣旨の話をしています。

良いゲーム機を用意し、その上にソフトを集める。任天堂が築いたビジネスを意識しながら、バンダイもプラットフォームを持つ側へ回ろうとしていました。

一方で山科氏は、任天堂とバンダイでは会社の発想そのものが違ったとも振り返っています。

任天堂はゲームそのものを中心にハードとソフトを組み上げていく会社です。

対するバンダイは、玩具、キャラクター、アニメ、映像、ゲーム、電子玩具などを横断して商品を作る会社でした。

この違いは、後のワンダースワンにも表れていきます。

同じ「自社ハードを作った会社」でも、アーケードを起点にMVSと家庭用を同じプラットフォームへ近づけたSNKとは成り立ちがまったく違います。SNK側の事情は、SNKはなぜ自社ハード「ネオジオ」を作った?アーケードと家庭用を同じゲームにした異例の戦略で詳しく整理しています。

ピピンの失敗、たまごっち、セガとの合併破談は直接原因なのか

ワンダースワンの企画が進んだ1996~1998年は、バンダイに大きな出来事が集中した時期でもあります。

時期出来事ワンダースワンとの関係
1996年2月『ポケットモンスター 赤・緑』発売ゲームボーイ市場が再び大きく動き始める
1996年3月ピピンアットマーク発売同時期のバンダイのデジタル事業。ただし「失敗したからWSを作った」とする直接証拠は確認できない
1996年9月11日株式会社コト設立横井軍平氏が任天堂退社後に設立
1996年11月たまごっち発売バンダイのデジタル玩具が大成功。ただしWS開発の直接原因とは確認できない
1997年バンダイから任天堂へWS販売を打診したと岡田智氏が証言「最初から完全な敵対ハードだった」という説明を再検討させる材料
1997年10月4日横井軍平氏死去商品完成前。残された開発陣がプロジェクトを継続
1998年10月8日ワンダースワン正式発表4,800円、小型・軽量などを前面に出す
1999年3月4日ワンダースワン発売携帯ゲーム機市場で任天堂などと競争開始

ここで注意したいのは、同じ時期に起きた出来事をそのまま因果関係へ変えてしまわないことです。

「たまごっちが売れたからワンダースワンを作った」「セガとの合併がなくなったから自社ハードへ戻った」「ピピンの失敗を反省してワンダースワンを作った」と断定できる資料は、今回確認できませんでした。

どれも当時のバンダイを理解する背景としては重要ですが、ワンダースワン誕生の直接原因として一本につなぐのは避けるべきです。

横井軍平とバンダイは、どうして組むことになったのか

横井軍平氏は1996年に任天堂を退社し、同年9月11日に株式会社コトを設立しました。

ワンダースワンについては、「横井氏が任天堂時代から温めていたゲーム機を、退社後すぐ商品化した」と説明されることがあります。

しかし、コト代表の窪田和弘氏は後年のインタビューで、そのような経緯ではないという趣旨を語っています。

さらに山科誠氏は、横井氏との交渉について自身が直接行ったものではなく、バンダイの担当役員が横井氏へ開発協力を依頼したと説明しています。

その担当役員が誰だったのか、どの時点でワンダースワンという商品の形が固まったのかまでは、今回確認した資料から特定できません。

したがって、

「山科誠氏が横井軍平氏を直接口説いてワンダースワンを作らせた」

あるいは、

「横井軍平氏が自分からバンダイへ新型携帯機を売り込んだ」

といった説明も、現時点では避けた方が正確です。

横井軍平はワンダースワンをどこまで作ったのか

横井氏がワンダースワンに深く関わったこと自体は確認できます。

1998年10月の発表を報じた当時のPC Watchは、横井氏が「マシン企画や設計」に携わり、その後コトとバンダイが共同で完成させたと報じています。

一方、後年の筑摩書房による横井氏の紹介では、「ワンダースワンの開発にアドバイザーとして参加」とされています。

表現には幅がありますが、少なくとも「横井軍平氏が一人でワンダースワンのすべてを設計した」わけではありません。

コト側の証言からは、NECも半導体・ロジック設計側で開発に参加していたことが分かっています。窪田氏自身も当時はNEC側のエンジニアとしてプロジェクトに関わり、その後コトへ移籍しました。

実態としては、横井氏の企画・設計への参加を核としながら、バンダイ、コト、NECなど複数の組織が分担して完成させたゲーム機と見るべきでしょう。

横井氏は1997年10月4日に交通事故で亡くなっています。

ワンダースワンの発売は1999年3月4日です。

そのため「横井軍平の遺作」という表現には一定の意味がありますが、商品として完成させたのは横井氏の死後も開発を続けた人々です。

「横井軍平氏が最後期に開発へ参加したゲームハード」と表現する方が実態に近いでしょう。

本当に最初から「ゲームボーイ対抗機」だったのか

ワンダースワンの歴史で、とりわけ重要なのが1997年の出来事です。

元任天堂の岡田智氏は2022年の4Gamerインタビューで、1997年、バンダイから開発中のモノクロ携帯ゲーム機ワンダースワンについて、任天堂から販売してもらえないかという打診があったと証言しています。

ゲームボーイを持つ任天堂へ、別会社が開発している携帯ゲーム機を持ち込む。

後の市場だけを知っていると、かなり奇妙に見える話です。

しかし岡田氏自身も、バンダイがなぜ任天堂へ話を持ってきたのかは分からないとしています。

また「販売」が何を意味していたのかも不明です。

任天堂の流通網だけを使いたかったのか、任天堂ブランドの商品にする構想だったのか、共同事業まで考えていたのか。

そこまでは証言から確認できません。

そのため、

「ワンダースワンは当初、任天堂から発売される予定だった」

と書いてしまうと話を大きくしすぎます。

資料から確認できるのは、1997年にバンダイから任天堂へ販売を担当してほしいという打診があったと岡田氏が証言しているところまでです。

一方でバンダイ側は「任天堂に追いつき追い越せ」と考えていた

ここがワンダースワン史のおもしろいところです。

山科誠氏は後年、ワンダースワンについて「任天堂に追いつき追い越せという方針」で取り組んでいたと振り返っています。

岡田氏の証言と山科氏の証言を並べると、一見矛盾しているようにも見えます。

しかし、両者が同じ時点、同じ交渉、同じ社内方針を語っているとは限りません。

1997年の段階で任天堂と組む選択肢を探った可能性もありますし、発売へ向けて独自事業としての色が強まった可能性もあります。

ただし、その途中で「ここから任天堂との対決路線へ転換した」と示す一次資料は確認できていません。

したがって、本文で言えるのはここまでです。

任天堂への販売打診があった。一方、実際に発売されたワンダースワンは任天堂を追う携帯ゲーム機事業として展開された。その間に戦略がどう変化したかは、現存資料だけでは断定できない。

ワンダースワンがゲームボーイカラー誕生のきっかけになった?

岡田智氏の証言には、さらに重要な続きがあります。

任天堂ではワンダースワンについて役員を交えた検討が行われ、その過程で山内溥社長からゲームボーイをカラー化するよう指示されたというのです。

ここだけ抜き出すと、

「ワンダースワンに驚いた任天堂が、慌ててゲームボーイカラーを作った」

という話になりそうです。

しかし、それも正確ではありません。

岡田氏によれば、任天堂ではゲームボーイのカラー化研究を1991年から進めており、すでに試作も行っていました。ただ、電池寿命や価格などを含め、商品として成立させられる段階ではないと判断されていたといいます。

その後、安価なカラー液晶を採用できる環境が整い、ワンダースワンへの対応を考える中で商品化が具体化した。

つまり、ワンダースワンが「カラーゲームボーイ」という発想そのものを生み出したわけではないものの、ゲームボーイカラーの商品化を前へ進めた要因の一つだったと整理するのが適切です。

ゲームボーイカラーは1998年10月21日に発売。

結果として、ワンダースワンが市場へ出る約4か月半前に、最大の競合であるゲームボーイはすでにカラー化を終えていました。

「任天堂一強」の市場へ出たとき、ゲームボーイは再び勢いを取り戻していた

ワンダースワンが発売された1999年を考えるとき、1989年発売のゲームボーイを「10年前の古いゲーム機」とだけ見ると状況を読み違えます。

大きな転機になったのが、1996年2月27日に発売された『ポケットモンスター 赤・緑』でした。

ポケモンの大ヒットによってゲームボーイ市場は再び大きく動き、その後ゲームボーイポケット、ゲームボーイライト、ゲームボーイカラーへと本体側も更新されていきます。

ワンダースワンが発売される頃には、「古くなったゲームボーイの隙を新規ハードが突く」という単純な市場ではなくなっていました。

ただし、ここでも順序を逆転させない方がいいでしょう。

「ポケモンが売れたので、バンダイが対抗してワンダースワンを作った」とする直接資料は確認できません。

企画・開発の正確な開始年月が完全には確定していない以上、ポケモンを開発動機として断定することはできません。

確実なのは、ワンダースワンが商品になるまでの間に、競争相手であるゲームボーイの市場環境がかなり強くなっていたことです。

なぜ1999年なのにモノクロ液晶だったのか

現在ワンダースワンを見たとき、最も不思議に感じる部分かもしれません。

1998年10月にはゲームボーイカラーが発売され、1999年3月19日にはSNKのネオジオポケットカラーも登場します。

その間の1999年3月4日に発売された初代ワンダースワンは、モノクロ液晶でした。

「カラー化する技術がなかった」は確認できない

まず、技術力不足でカラー化できなかったとする根拠は確認できません。

初代ワンダースワンの特徴を並べると、別の方向を優先していたことが見えてきます。

項目初代ワンダースワン
発売日1999年3月4日
価格4,800円
画面反射型FSTNモノクロ液晶
解像度224×144ドット
電源単3形アルカリ乾電池1本
連続使用時間約30時間
特徴小型・軽量、縦持ち・横持ちに対応

1998年の発表時にも、バンダイは「小さく、軽く、薄い」という方向を強く打ち出していました。

4,800円、乾電池1本、約30時間。

カラー表示を競うより、本体価格、携帯性、消費電力を強く意識した製品設計だったことは、完成した本体からも読み取れます。

一方で、「4,800円と30時間駆動を実現するため、横井軍平氏が意図的にモノクロ液晶を選んだ」と直接説明するワンダースワン開発者の一次発言までは確認できませんでした。

そのため、

「技術的にカラー化できなかった」も、「横井氏が電池寿命のためモノクロを選んだ」も、確認できる資料以上に断定しない。

これが現時点では最も安全です。

4,800円はどれほど安かったのか

ワンダースワンの4,800円は、発売当時の新しいゲームプラットフォームとしてかなり低い価格でした。

ただし、「当時もっとも安い携帯ゲーム機だった」とすると正確ではありません。

すでに普及していたゲームボーイポケットは値下げされていたためです。

ワンダースワン発売時期の主要機種と比べると、位置づけが分かりやすくなります。

機種発売時期主な価格画面
ワンダースワン1999年3月4日4,800円モノクロ
ゲームボーイポケット1996年7月21日発売時6,800円、その後値下げモノクロ
ゲームボーイライト1998年4月14日6,800円モノクロ・バックライト搭載
ゲームボーイカラー1998年10月21日発売時8,900円カラー
ネオジオポケット1998年10月28日7,800円モノクロ
ネオジオポケットカラー1999年3月19日8,900円カラー

とくに、発売時8,900円だったゲームボーイカラーに対して、ワンダースワンは4,800円です。

すでに何年も市場にある旧型ゲームボーイではなく、新しく立ち上げるゲーム機を4,800円で投入したところに意味があります。

では、なぜそこまで安くできたのか。

詳細な原価や本体1台あたりの利益は公開資料から確認できません。「赤字覚悟の4,800円だった」と断定できる資料も見つかっていません。

モノクロ液晶、小型筐体、乾電池1本という構成が、カラー機とは違うコストと消費電力のバランスを作っていたことは確かですが、具体的な原価計算まで推測で埋めない方がいいでしょう。

縦でも横でも遊べる――ワンダースワン独自の操作方法

ワンダースワンの外観でもう一つ目を引くのが、ボタン配置です。

本体を通常の携帯ゲーム機のように横向きで持つだけでなく、90度回転させ、縦長の画面として遊べるよう設計されています。

ゲーム側が使い方を選べるため、縦画面が向くシューティングやパズルなどでは、携帯機そのものの持ち方を変えることができました。

携帯ゲーム機は横に持つもの――という形を固定しなかった点は、ワンダースワンの個性として現在も分かりやすい部分です。

ただし、この仕組みを「横井軍平氏一人のアイデア」と特定できる一次資料は確認できません。

横井氏が本体の企画・設計へ関与したことと、個々の機能を誰が発案したかは分ける必要があります。

コトではタッチパネル搭載試作機まで作っていた

入力方法をめぐっては、さらに先の実験も行われていました。

コトの窪田和弘氏は後年、タッチパネルを載せたワンダースワンのプロトタイプを作っていたことを明らかにしています。

ほかにもGPSを利用する案や、ワンダースワンを小型コンピュータのように利用する構想などが検討されていました。

ただし、タッチパネル版が正式な次期モデルとして発売予定になっていたことまでは確認できません。

「幻のタッチパネル版ワンダースワンが発売寸前だった」とするのではなく、コト内部で試作・研究されていたアイデアの一つとして扱うのが適切です。

「枯れた技術の水平思考」で作られたハードなのか

横井軍平氏を語るときによく登場するのが、「枯れた技術の水平思考」という考え方です。

最新技術そのものを競うのではなく、十分に使いこなされ、価格もこなれた技術を別の使い道へ展開する。

ゲーム&ウオッチやゲームボーイを説明するときにも使われてきた言葉です。

ワンダースワンを見ると、4,800円という低価格、モノクロ液晶、乾電池1本での長時間駆動など、この考え方と重なる部分は確かにあります。

一方で、今回確認した範囲では、横井氏本人が「ワンダースワンを枯れた技術の水平思考で設計した」と明言した資料は確認できませんでした。

そのため、後から設計思想との共通点を読み取ることと、本人の直接発言として紹介することは分ける必要があります。

発売日のソフトは4本|バンダイだけのゲーム機ではなかった

1999年3月4日の本体発売日に用意されたのは4タイトルでした。

  • 『GUNPEY』
  • 『チョコボの不思議なダンジョン for ワンダースワン』
  • 『電車でGO!』
  • 『新日本プロレスリング 闘魂烈伝』

発売元もバンダイだけではありません。タイトー、トミーなどが最初から加わっています。

翌週には『ぷよぷよ通』『ワンダースタジアム』『信長の野望 for WonderSwan』『麻雀登龍門』が登場し、3月25日には『デジタルモンスター Ver.WonderSwan』も発売されました。

立ち上げ時点から、バンダイだけでソフトを抱えるのではなく、他社作品を含めてプラットフォームを作ろうとしていたことが分かります。

バンダイにはキャラクターIPという別の武器があった

その一方で、バンダイ自身が持つ強みもありました。

ガンダム、デジモンをはじめ、玩具やアニメと結びついた多数のキャラクターを自社ハードへ投入できます。

これは任天堂ともSNKとも違うバンダイ独自の条件でした。

「キャラクターIPがあるからワンダースワンを作った」とまで言うことはできませんが、ハード発売後にソフトを継続して供給するうえで、バンダイが巨大なキャラクタービジネスを持っていたことは確かな強みでした。

スクウェア参入と『ファイナルファンタジー』は何を変えたのか

ワンダースワン史の大きな転換点となったのが、スクウェアの本格参入です。

2026年にスクウェア・エニックス公式サイトで公開された河津秋敏氏へのインタビューでは、1999年、バンダイからスクウェアへワンダースワンに参入してほしいという話があったことが明かされています。

スクウェア側では2年間で10本ほどを出す計画があり、過去作品の移植だけでは本数が足りないため、新作も作ることになったと河津氏は振り返っています。

この証言を見ると、

「任天堂と関係が悪かったスクウェアが、仕方なくワンダースワンへ移った」

だけでは説明が足りません。

バンダイ側が有力ソフトメーカーとしてスクウェアを積極的に誘致し、スクウェア側も携帯ゲーム機という開発環境に意味を見いだしていたことが確認できます。

なぜわずか1年9か月でワンダースワンカラーを出したのか

2000年12月9日、初代発売から約1年9か月で「ワンダースワンカラー」が登場しました。

価格は6,800円。

反射型FSTNカラー液晶を採用し、4096色中241色の同時表示に対応。従来のワンダースワン用ソフトもそのまま利用でき、単3形アルカリ乾電池1本で最大約20時間遊べました。

そして同じ12月9日に発売されたのが、スクウェアの『ファイナルファンタジー』です。

本体とソフトを組み合わせた同梱版まで用意され、FFがワンダースワンカラーの立ち上げを担う重要タイトルだったことは間違いありません。

「モノクロ版が失敗したので慌ててカラー化」は裏付けられない

発売間隔が短いため、初代ワンダースワンが失敗したので急遽カラー化した、と説明されることがあります。

しかし、その因果関係を示す資料は確認できません。

2000年8月30日のバンダイ公式発表では、初代ワンダースワンはその時点で累計155万台を出荷し、8月末までに105タイトルが発売されたと説明されています。

少なくとも「市場でまったく成立しなかったため、慌てて別製品へ置き換えた」と単純化できる状況ではありません。

逆に、初代発売前からカラー版の発売時期まで完全に決まっていた、と確認できる資料も見つかっていません。

ゲームボーイカラーへの対応、カラー液晶をめぐるコストの変化、スクウェア参入など、複数の事情が存在します。

ただし、それぞれがカラー版開発開始の直接原因だったと結びつけるには証拠が足りません。

『ファイナルファンタジー』でワンダースワンは復活したのか

ワンダースワンカラーと同時に発売された『ファイナルファンタジー』は、大きな注目を集めました。

その後もスクウェアから『ファイナルファンタジーII』『ファイナルファンタジーIV』『ロマンシング サ・ガ』『フロントミッション』などが展開されます。

FFという強力なブランドが、ワンダースワンカラーの知名度とソフトラインアップを大きく押し上げたことは確かです。

一方、発売時の話題性とプラットフォームの長期的な競争力は別に考える必要があります。

有力作品が増えても、ハードの普及台数、ユーザー基盤、サードパーティーの規模、次世代機との性能差まで一気に逆転するわけではありません。

そのため「FFでワンダースワンが完全復活した」とまでまとめると、その後の展開を説明できなくなります。

ゲームボーイアドバンス登場で競争はどう変わったのか

2001年3月21日、任天堂はゲームボーイアドバンスを9,800円で発売しました。

32ビットCPUと2.9インチのカラー液晶を搭載し、それまでのゲームボーイ/ゲームボーイカラー用ソフトにも対応しています。

ワンダースワンカラーは6,800円ですから、価格だけならまだ大きな差がありました。

しかし競争は、「安いモノクロ機か、高いカラー機か」という1999年の構図から変わります。

任天堂は長年積み上げたゲームボーイのユーザー基盤、ポケモンを含む自社タイトル、サードパーティー、旧世代ソフトとの互換性をそのまま新世代機へつなげることができました。

価格だけでは埋めにくいプラットフォーム全体の差が、さらに大きくなります。

それでもGBA発売と同時にワンダースワンが終了したわけではない

「ゲームボーイアドバンスが出た瞬間、ワンダースワンは終わった」という説明も正確ではありません。

バンダイはGBA発売後もワンダースワン事業を続けています。

2002年7月12日には、最終モデルとなる「スワンクリスタル」を7,800円で発売しました。

最大の変更点は液晶です。

ワンダースワンカラーの反射型FSTNから、2.8インチの反射型TFTへ変更。残像や視認性を改善し、従来のワンダースワン/ワンダースワンカラー用ソフトや周辺機器にも対応しました。

電池は引き続き単3形アルカリ乾電池1本で、連続使用時間は約15時間です。

モデル発売価格画面電池寿命の目安
ワンダースワン1999年3月4日4,800円モノクロFSTN約30時間
ワンダースワンカラー2000年12月9日6,800円カラーFSTN最大約20時間
スワンクリスタル2002年7月12日7,800円カラーTFT約15時間

モノクロからカラーへ、さらにTFTへ。

市場で苦戦しながらも、バンダイはすぐにハードを放棄したのではなく、弱点を修正しながら約4年間にわたって製品を更新していました。

ワンダースワンはいつ終わったのか

ワンダースワンには「この日で全部終了」と簡単に決められる終点がありません。

大きな転換点は2003年2月18日です。

バンダイはゲームボーイアドバンスへのソフト参入を発表すると同時に、スワンクリスタルについて翌期から受注生産方式へ移行する方針を明らかにしました。

当時のGAME Watchでは、この時点でワンダースワンシリーズは300万台以上を出荷したと報じられています。

一方、バンダイはその場でワンダースワン事業を即座に完全終了すると発表したわけではありません。

ソフトもその後まで発売されています。

したがって、

2003年=一般市場でのハード展開が事実上縮小した時期

と見るのが分かりやすく、「2003年にすべて終了した」とするのは少し雑です。

シリーズ350万台は何を意味するのか

ワンダースワンについては「シリーズ350万台」という数字がよく使われます。

ここも出典の違いに注意が必要です。

2003年2月のGAME Watchでは、その時点のワンダースワンシリーズについて「300万台以上を出荷」と報じています。

後年の4Gamerによる株式会社コトへの取材記事では、ワンダースワン、ワンダースワンカラー、スワンクリスタルを合わせて、本体350万台、ソフト1000万本以上と記されています。

ただし、この350万台について、国内のみなのか、出荷なのか実売なのかまで定義できるバンダイ最終公式集計は今回確認できませんでした。

そのため、

「国内で350万台売れた」

のように数字の意味を勝手に補うのは避けた方がいいでしょう。

「4Gamerのコト取材記事ではシリーズ350万台、ソフト1000万本以上とされている」と出典を限定して使うのが安全です。

ワンダースワンは成功だったのか、失敗だったのか

任天堂のゲームボーイ系プラットフォームを追い越せなかった、という意味では答えははっきりしています。

ワンダースワンが携帯ゲーム機市場の主導権を握ることはありませんでした。

バンダイがワンダースワンの後継となる本格的な独自携帯ゲームプラットフォームを継続しなかったことを考えても、長期的なハード事業として定着したとは言いにくいでしょう。

ただ、それだけで「完全な失敗」とすると別の事実が消えてしまいます。

4,800円という低価格。

乾電池1本で約30時間という省電力。

縦と横の両方で遊べる操作系。

バンダイ自身のキャラクターに加えて多数の他社作品を集め、最終的にはスクウェアと『ファイナルファンタジー』まで呼び込みました。

初代からカラー、スワンクリスタルまでハードを更新しながら数年間市場に残り、数百万台規模のシリーズになったことも確かです。

市場の勝者にはならなかった。しかし、ゲームボーイが圧倒的に強かった時代に、価格・省電力・本体形状・キャラクターIPという別の組み合わせで独自の市場を作った。

ワンダースワンは、その両面を見ないと評価を誤るハードです。

よくあるワンダースワンの説明を整理すると

よくある説明確認結果
横井軍平が一人で作った誤り。横井氏は企画・設計などへ関与したが、バンダイ、コト、NECなど複数組織の共同開発
横井軍平が任天堂を倒すために作ったそこまで確認できない。1997年には任天堂へ販売を打診したという岡田智氏の証言もある
ワンダースワンがあったからゲームボーイカラーが作られた一部のみ正しい。カラー化研究は1991年から。WSは商品化を進める要因の一つになったとされる
モノクロなのは技術力不足だった根拠なし。低価格・省電力を強く意識した仕様だが、採用理由を断定できる直接証言は不足
4,800円は赤字覚悟だった資料不足。原価や利益率は確認できない
初代が失敗したので急いでカラー化した裏付けなし。カラー版発表時点で初代は累計155万台出荷とバンダイが発表
FFのためにカラー版を作った確認できない。FFは重要な同時発売タイトルだが、カラー機開発の直接原因とは断定不可
GBAが発売された瞬間に終了した誤り。2002年にはスワンクリスタルまで発売されている
タッチパネル版が存在した試作機は存在。ただし正式な発売予定商品だったことまでは確認できない

ワンダースワンから見える「バンダイという会社」

ワンダースワンは、ハード単体の性能だけを比べるより、バンダイという会社の性格から見ると理解しやすくなります。

任天堂はゲームを中心にハード、ソフト、キャラクターを育ててきた会社です。

バンダイは玩具、キャラクター、アニメ、映像、電子玩具、ゲームなどを横断する会社でした。

だからワンダースワンにも、ゲーム機以外へ広がる発想が見えます。

自社キャラクターをゲームへ持ち込み、外部メーカーも誘致する。携帯電話やPCとの接続を構想し、コトではタッチパネルやGPSまで試す。

単に「ゲームボーイと同じものをもっと安く作る」だけなら、ここまで広い発想は必要ありません。

すべてが実現したわけではありませんが、玩具・キャラクター企業だったバンダイが、自分たちなりの携帯デジタルプラットフォームを持とうとした試みとして見ると、ワンダースワンの特徴が一本につながります。

横井軍平の発想をさらに追いたいなら

ワンダースワンを調べていくと、ゲームボーイやゲーム&ウオッチ、そして横井軍平氏がどのように商品を考えていたのかへ話が戻ってきます。

『横井軍平ゲーム館 ―「世界の任天堂」を築いた発想力』は、横井氏本人へのインタビューを軸に、ゲーム&ウオッチやゲームボーイなどの開発背景と考え方を追える一冊です。ワンダースワン専門書ではありませんが、横井氏の発想そのものをもう一段深く知りたい場合には相性があります。

『横井軍平ゲーム館 ―「世界の任天堂」を築いた発想力』表紙
横井軍平ゲーム館 ―「世界の任天堂」を築いた発想力

横井軍平氏の発想と開発哲学を、ゲーム&ウオッチやゲームボーイなどの開発背景とともに追える一冊です。ワンダースワンそのものの専門書ではありませんが、「なぜこのような携帯ゲーム機を考えたのか」をもう一段深く理解したい人に向いています。

価格・在庫・仕様や版の違いなどは変動します。購入の際は各ショップの商品ページで最新情報をご確認ください。

まとめ|バンダイはなぜワンダースワンを作ったのか

ワンダースワンを結果だけで見ると、「ゲームボーイへ挑み、勝てなかった携帯ゲーム機」という話になります。

しかし誕生まで戻ると、それだけでは説明できません。

バンダイには1970年代から、自分たちのゲームハードを持とうとする流れがありました。

何度も苦戦しながらプレイディアやピピンアットマークまで続いたその流れの中で、任天堂を退社した横井軍平氏とコトが加わり、バンダイやNECを含む複数の組織によってワンダースワンが作られました。

横井氏一人の作品ではありません。

そして「ゲームボーイを作った男が任天堂へ復讐するために作った」という証拠もありません。

むしろ1997年には、バンダイが任天堂へワンダースワンの販売を担当してほしいと打診したという岡田智氏の証言があります。

その後、実際に発売されたワンダースワンは、4,800円、モノクロ液晶、単3形乾電池1本、長時間駆動、小型軽量、縦横両持ちという独自の組み合わせを選びました。

そこへバンダイのキャラクターIP、外部メーカー、スクウェアと『ファイナルファンタジー』が加わり、ワンダースワンカラー、スワンクリスタルへと発展していきます。

それでも、ゲームボーイ、そしてゲームボーイアドバンスが持っていた巨大なユーザー基盤とソフト環境を崩すことはできませんでした。

だからといって、ワンダースワンの意味が「負けた」という一言で終わるわけでもありません。

長年、自社ゲームハードを持とうとしてきたバンダイと、横井軍平氏らが持っていた携帯機づくりの経験が交わり、任天堂とは違う優先順位で生まれた携帯ゲーム機。

ワンダースワンは、そう捉えると最も分かりやすいハードです。

そして1997年の任天堂への販売打診まで含めて見ると、その歴史は「ゲームボーイの父がゲームボーイへ挑んだ」という単純な対決物語より、ずっと複雑だったことが見えてきます。

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