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池谷公二郎さん死去|74歳、カープ初優勝を支えた名投手の死因と功績

池谷公二郎さん死去|死因は多発性骨髄腫、74歳の沢村賞投手が残した功績

池谷公二郎さん死去、74歳。カープ初優勝を支えた名投手を追悼する、夕焼けの野球場とマウンドに置かれたボール・赤い帽子・グラブのイラスト。

広島東洋カープの球団史上初となるリーグ優勝を支えた元投手、池谷公二郎(いけがや・こうじろう)さんが2026年10月29日、多発性骨髄腫のため亡くなりました。74歳でした。

1975年に18勝を挙げてカープの初優勝に貢献し、翌1976年には20勝で最多勝と沢村賞を獲得。グラブをはめた左腕を高く掲げる豪快な投球フォームで知られ、赤ヘル黄金時代を彩った名投手の一人です。

1985年の現役引退後も広島や巨人で投手コーチを務め、野球解説者として長年活動。近年は病気と闘いながらも、2025年11月にはカープOBが集まるレジェンドゲームに参加していました。

突然の訃報を受け、池谷さんがどのような投手だったのか、カープ初優勝でどれほど活躍したのか、改めて知りたいという人も多いのではないでしょうか。

この記事では、死因と晩年の活動、1975年の初優勝、1976年の沢村賞、通算103勝の記録、引退後の指導者としての歩みまで、公式記録と報道で確認できる事実をもとに振り返ります。

池谷公二郎さんが74歳で死去|死因は多発性骨髄腫

2026年10月29日、広島東洋カープの元投手で野球解説者の池谷公二郎さんが亡くなったことが報じられました。

テレビ新広島は同日午前11時21分に訃報を伝え、その後、中国放送、広島テレビ、全国のスポーツ紙なども相次いで報道しています。

死因として伝えられているのは、多発性骨髄腫です。

1952年6月28日生まれの池谷さんは、2026年6月に74歳の誕生日を迎えたばかりでした。

現役時代は広島一筋で12シーズンにわたってプレー。引退後も指導者や解説者として野球に携わり続けており、カープファンにとって長年親しまれてきた存在でした。

多発性骨髄腫とはどんな病気?

多発性骨髄腫は、血液細胞の一種である「形質細胞」ががん化し、主に骨髄の中で増殖する血液のがんです。

形質細胞は本来、細菌やウイルスなどから体を守る抗体をつくる働きを持っています。しかし、この細胞ががん化すると、正常な血液細胞の生成や臓器の働きに影響を及ぼすことがあります。

病状によって貧血、骨の痛み、腎機能の低下などが起こる場合がありますが、現れる症状や進行の仕方には個人差があります。

池谷さんについては死因が多発性骨髄腫と報じられているものの、亡くなる直前の具体的な症状や治療内容まで明らかになっているわけではありません。

過去に患った別の病気との因果関係についても、推測で結びつけることはできません。

池谷公二郎さんのプロフィールと経歴

池谷公二郎さんは、静岡県出身の右投右打の投手です。静岡商業高校から社会人野球へ進み、広島東洋カープに入団しました。

氏名池谷公二郎
読み方いけがや・こうじろう
生年月日1952年6月28日
死去2026年10月29日(74歳)
出身地静岡県
身長・体重178cm・78kg(選手時代の登録)
投打右投右打
経歴静岡商業高校-金指造船-日本楽器-広島東洋カープ
ドラフト1972年・広島1位指名
プロでの出場期間1974~1985年
主なタイトル・表彰最多勝、沢村賞、ベストナイン(いずれも1976年)
通算成績325試合、103勝84敗10セーブ、防御率4.13

1972年のドラフト1位指名から1974年のプロ入りへ

池谷さんの経歴で少し分かりにくいのが、ドラフト指名とプロ入りの年が異なる点です。

広島が池谷さんをドラフト1位で指名したのは1972年。しかし、池谷さんは翌1973年も社会人野球の日本楽器に残り、都市対抗野球に出場しました。

その後、1973年のドラフト会議前に広島と契約し、1974年からプロ野球でプレーしています。

したがって「1972年ドラフト1位指名」と「1974年入団」という記述は矛盾しません。

プロ1年目の1974年は22試合に登板して2勝4敗。翌1975年、入団2年目にして一気に主力投手へと成長します。

1975年、カープ初優勝を支えた18勝の大活躍

池谷公二郎さんの現役時代を語るうえで、最初に振り返りたいのが1975年です。

この年、広島東洋カープは球団創設以来初めてセントラル・リーグを制覇しました。

カープは1974年に最下位へ沈んでいましたが、1975年には72勝47敗11分け、勝率.605でリーグ優勝。大きな躍進を遂げます。

その投手陣を支えたのが、20勝の外木場義郎さんと18勝の池谷公二郎さんでした。

外木場義郎20勝、池谷公二郎18勝という強力な二本柱

当時のカープは、山本浩二さんや衣笠祥雄さんらを擁する打線だけでなく、投手陣にも大きな強みがありました。

1975年の投手陣はチーム防御率2.96を記録。リーグでも優れた投球成績を残しています。

この年、外木場さんが20勝、池谷さんが18勝。2人に記録された勝利数の合計は38勝で、カープのチーム72勝の半数を超えます。

つまり、カープ初優勝は打線の活躍だけで成し遂げられたものではありません。外木場さんと池谷さんを中心とした投手陣の存在が、優勝の大きな原動力となっていました。

池谷さん個人の成績を詳しく見ると、45試合登板、18勝11敗、10完投、244投球回、防御率3.32。

プロ入りしてわずか2年目で、年間244イニングを投げながら18勝を積み重ねたことになります。

しかも、この年の活躍は一時的なものではありませんでした。翌1976年には、さらに大きな成績を残すことになります。

1975年はリーグ初優勝、日本一は1979年

ここで区別しておきたいのが、リーグ優勝と日本一の違いです。

1975年の広島はセ・リーグ初優勝を果たしましたが、日本シリーズでは阪急ブレーブスに敗れています。

カープが球団史上初めて日本一になったのは、その4年後の1979年です。

そして、この1979年の日本シリーズでも、池谷さんは球団史に残る重要な役割を果たしました。

1976年には20勝で最多勝・沢村賞を獲得

1975年に初優勝を経験したカープは、翌1976年も池谷さんを主力投手として起用しました。

この年の池谷さんは、前年を上回る20勝を記録。セ・リーグ最多勝に輝き、沢村賞とベストナインも受賞しています。

1976年の主な投手成績は次のとおりです。

  • 登板数:51試合
  • 勝敗:20勝15敗
  • セーブ:3
  • 完投:18
  • 完封勝利:3
  • 投球回:290回1/3
  • 奪三振:207
  • 防御率:3.26

注目したいのは、20勝という勝利数だけではありません。

51試合に登板し、18試合で完投。投球回は290回を超え、207三振を奪っています。

現在のプロ野球では先発投手と救援投手の役割が細かく分かれ、先発投手が年間290イニング以上を投げることは極めて珍しくなりました。

池谷さんの記録には、先発投手が長いイニングを投げることを強く求められた時代の野球が表れています。

また、207奪三振は1976年のセ・リーグ最多でした。ただし、当時のセ・リーグでは現在のような最多奪三振の正式な表彰制度がなかったため、正式な受賞タイトルとは区別する必要があります。

20勝、290回1/3、207奪三振、18完投。

池谷さんが沢村賞に選ばれた背景には、チームの勝利に貢献するだけでなく、数多くの試合で長いイニングを投げ抜いた実績がありました。

左腕を高く掲げる豪快な投球フォームが代名詞

池谷さんを知る往年のカープファンにとって、勝利数と並んで印象的なのが独特の投球フォームでしょう。

右投げの池谷さんは、グラブをはめた左腕を大きく上へ突き上げる豪快なフォームで知られていました。

その特徴的な動作から力強いボールを投げ込み、打者に真っ向勝負を挑む姿は、多くのファンの記憶に残っています。

ただし、力強い投球には厳しい数字も伴いました。

1977年の48被本塁打は現在もプロ野球記録

1977年、池谷さんはシーズン48本の本塁打を浴びました。

これは2026年シーズン終了時点でもNPB歴代最多のシーズン被本塁打記録です。

当時は直球勝負を重視する投球姿勢と結びつけて語られることもありましたが、記録の評価には冷静さも必要でしょう。

1977年は44試合に登板して11勝16敗、226投球回、176奪三振、防御率5.22。三振を奪う力を見せた一方で、多くの失点も記録したシーズンでした。

それでも、年間226イニングを投げて11勝を挙げた事実からは、苦しい状況でも一定の役割を担い続けたことが分かります。

沢村賞を獲得した前年とは対照的な成績ですが、こうした浮き沈みも含めて、池谷さんの投手としての歩みを理解することができます。

1979年の日本シリーズでカープ史上初の勝利投手に

池谷公二郎さんの功績で、1975年の初優勝や1976年の沢村賞とともに忘れてはならないのが、1979年の日本シリーズです。

1979年、広島東洋カープは近鉄バファローズと日本一を懸けて対戦しました。

ところが、広島は第1戦を2対5、第2戦を0対4で落とし、2連敗からのスタートとなりました。

球団初の日本一を目指すカープにとって、これ以上負けられない第3戦。そのマウンドに上がったのが池谷さんでした。

10月30日の第3戦で7回2失点の力投

1979年10月30日、広島市民球場で行われた日本シリーズ第3戦。

池谷さんは先発し、7回を投げて被安打5、2失点。初回に2点を失いましたが、その後は追加点を許さず、味方の反撃を待ちました。

広島打線は2回に水谷実雄さんの本塁打で1点を返すと、7回裏に2点を奪って逆転します。

8回からは江夏豊さんが登板し、2イニングを無失点に抑えて試合終了。

広島が3対2で勝利し、池谷さんが勝利投手、江夏さんがセーブを記録しました。

これはカープにとって、日本シリーズでの球団史上初勝利でした。

その後、広島は第7戦までもつれ込んだシリーズを制し、念願の初の日本一に輝いています。

日本シリーズの歴史では第7戦の江夏さんの投球がとりわけ有名ですが、2連敗の状況から反撃を始めた第3戦で、池谷さんが果たした役割も見逃せません。

1975年のリーグ初優勝に続き、1979年には日本一への道を切り開く勝利投手となった池谷さん。カープの歴史に残る二つの転機に、その名前が刻まれています。

現役12年間で通算103勝|年別成績を振り返る

池谷さんは1974年から1985年まで、広島東洋カープ一筋で現役生活を送りました。

NPB公式記録による通算成績は325試合登板、103勝84敗10セーブ、1056奪三振、防御率4.13です。

主な年度の成績を整理すると、1975年から1981年にかけて長く先発陣の中心を担っていたことが分かります。

年度登板勝利敗戦投球回防御率
19742224465.09
19754518112443.32
1976512015290回1/33.26
19774411162265.22
197835137208回1/34.24
1979321281684.88
19802896169回1/33.30
198125107130回2/34.60
通算325103841622回1/34.13

1982年に右肩を痛めてからは、それ以前のように多くの勝利を積み重ねることが難しくなりました。

それでも1983年には6勝を記録。1984年も4試合に登板して1勝を挙げ、1985年限りで現役を引退しています。

池谷さんが在籍した期間、カープは1975年、1979年、1980年、1984年の4度のリーグ優勝と、1979年、1980年、1984年の3度の日本一を達成しました。

ただし、1984年の池谷さんは登板4試合であり、初優勝時や1979~1980年と同じように主力投手として貢献していたわけではありません。

選手として特に大きな役割を果たしたのは、1975年の初優勝と、1979~1980年のリーグ連覇・日本一の時期だったといえるでしょう。

引退後は広島・巨人の投手コーチに|1991年の優勝にも貢献

1985年に現役を引退した池谷さんは、その後も野球界から離れることはありませんでした。

1988年秋、山本浩二監督の就任に伴って広島の投手コーチに就任。現役時代の後輩だった北別府学さん、大野豊さんらを指導する立場となります。

1991年には、広島がセ・リーグ優勝を達成。池谷さんも安仁屋宗八さんとともに投手陣を支え、指導者として優勝に関わりました。

この年のカープといえば、津田恒実さんの存在も忘れられません。

津田さんは1991年に体調を崩し、後に脳腫瘍を患っていたことが明らかになります。池谷さんはコーチとして、津田さんを欠いた投手陣の指導にも取り組みました。

現役時代には自らマウンドに立って初優勝を支え、引退後にはベンチからチームを支えた池谷さん。カープの優勝に選手と指導者の両方の立場で関わったことも、特筆すべき経歴です。

巨人でもコーチを務め、野球解説者として活動

池谷さんは1992年限りで広島のコーチを退任し、その後、1998年からは読売ジャイアンツでも投手コーチを務めました。

現役時代は広島一筋でしたが、指導者としては他球団でも経験を積んでいます。

コーチを退いた後は広島テレビなどで野球解説者として活動。カープ戦の解説だけでなく、情報番組の司会を務めるなど、テレビでも親しまれていました。

厳しい練習を経験してきた池谷さんは、指導者としても野球に真剣に向き合っていたようです。

訃報を受け、かつて一緒に広島の投手コーチを務めた安仁屋宗八さんは、池谷さんの野球に対する熱意を振り返り、仲間を失った寂しさを語っています。

投手として結果を残すだけでなく、後進の育成や野球の魅力を伝える仕事にも長く携わっていたことが分かります。

晩年は病気と闘い、2025年にはレジェンドゲームに参加

近年の池谷さんは、複数の病気と向き合う生活を送っていました。

デイリースポーツの報道によると、過去には肺がんを患い、多発性骨髄腫や新型コロナウイルス感染症、膵臓がんなどとも闘っていました。

2025年2月には手術を受け、その後もリハビリに取り組んでいたと伝えられています。

その大きな目標となっていたのが、2025年11月29日に開催された「Carp Legend Game 2025」でした。

カープ初優勝から50年、再びグラウンドへ

2025年11月29日、マツダスタジアムで「Carp Legend Game 2025」が開催されました。

このイベントは、広島への原爆投下から80年、そして広島東洋カープの球団初優勝から50年という節目に行われたものです。

山本浩二さん、外木場義郎さん、安仁屋宗八さん、大野豊さんら、球団の歴史を築いてきたOBが集まりました。

池谷さんも参加者の一人として名前を連ね、実際にグラウンドへ姿を見せています。

病気と闘い、手術やリハビリを経験した後、カープ初優勝50年の記念イベントに参加できたことは、池谷さんの晩年を振り返るうえで大切な出来事です。

1975年には現役投手として18勝を挙げた池谷さんが、50年後にはOBとして再びファンの前に立つ。その姿を見られたことは、長年応援してきたカープファンにとっても特別な思い出となったことでしょう。

しかし、2026年に入ってからは再び体調が悪化したと報じられています。テレビ番組への出演もなくなり、10月29日に74歳で亡くなりました。

なお、2025年11月のレジェンドゲームが生前最後の公の活動だったかどうかは、現時点では確認できません。

また、膵臓がんなどの過去の病歴と、今回の死因である多発性骨髄腫を混同しないことも重要です。病気同士の因果関係や、亡くなる直前の詳しい容体については、確認できない情報を断定することはできません。

カープの歴史に池谷公二郎さんが残したもの

池谷公二郎さんの名前は、広島東洋カープが球団史上初めてリーグ優勝を成し遂げた1975年と深く結びついています。

しかし、その足跡をたどると、初優勝だけでは語り切れない多くの実績があります。

1976年には20勝を挙げ、沢村賞を受賞。1979年には日本シリーズ第3戦の勝利投手となり、球団史上初のシリーズ勝利を記録しました。

現役時代を通じて103勝を積み重ね、引退後も1991年のリーグ優勝を投手コーチとして支えました。

さらに、長年にわたる野球解説者としての活動を通じて、カープの試合や選手の魅力をファンに伝え続けてきました。

通算103勝という数字は、プロ野球の歴代最多勝利記録に並ぶものではありません。それでも、球団初優勝という大きな転機で18勝を挙げたこと、沢村賞投手となったこと、初の日本一へ向かう日本シリーズで重要な勝利を挙げたことには、数字だけでは測れない歴史的な意味があります。

グラブを高く掲げる独特のフォーム、打者と真っ向から勝負する投球、そして現役引退後も野球に関わり続けた姿。

それらは、カープの黄金時代を知る人々の記憶に残り続けるはずです。

1975年の初優勝を支えた投手が、半世紀を経て2025年の記念イベントにも参加していたことを思うと、一人の選手の人生が球団の歴史とどれほど長く重なっていたかが伝わってきます。

池谷公二郎さんが74歳で亡くなったことを悼むとともに、カープの歴史に残した数々の功績に、改めて敬意を表したいと思います。

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