
再開日は未定。でも“終わらせる意思”は明言——まずは事実だけ、やさしく確認。
2025年8月、矢沢あいさんの画業40周年&『NANA』連載25周年に合わせて、特集ムック『矢沢あい『NANA』の世界』(平凡社)が刊行され、新規インタビューが掲載されました。ここで矢沢さんは、「物語はすでに最終段階にあり、結末はほぼ決まっている」と説明。「いつになるかは明言できないが、必ず終わらせたい」という意志を改めて示しています。プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMESナタリー
海外メディアやファンコミュニティもこの発言を相次いで紹介。「物語はファイナルステージにあり、作者は完結の意思を持っている」という点で概ね一致して報じています(ただし再開時期は未定)。Diario ASComicBook.comAnimeMojo.com
一方で、2009年からの休載という事実に変化はありません。2025年も展覧会やユニクロコラボなど周辺活動は活発化していますが、連載の正式再開告知は出ていないのが現状です。マグミクス
発言のソースと要旨
2025年8月に刊行された公式ムック『矢沢あい「NANA」の世界』(平凡社)に収録されたインタビューで、矢沢あいさんは物語の現状について「最終段階にある」「結末はほぼ決まっている」と明言しました。2009年から長期休載に入って以来、初めてここまで具体的に“終わり”を示唆した言葉に、多くのファンが大きな期待を寄せています。同書は発売前から重版が決定するなど話題を呼び、作者全面協力のもとに貴重な資料や原稿がまとめられています。
『矢沢あい「NANA」の世界』をAmazonでチェック一方で、読者が最も気にしている「いつ再開するのか」という点については、明確な言及はありませんでした。矢沢さんは「必ず終わらせたい」と強い意志を語りながらも、連載再開の具体的な時期や制作スケジュールについては触れていません。体調や環境を含めて、まだ調整が必要な段階だと読み取れます。
ここ数年、『ALL TIME BEST 矢沢あい展』やユニクロとのコラボなど、作品や作家本人をめぐる企画が立て続けに実施され、ファンとの距離を少しずつ縮める動きが見られました。今回のインタビューも、その延長線上にある「読者との再接続」として大きな意味を持ちます。しかし、こうした周辺活動の盛り上がりがそのまま“連載再開決定”を意味するわけではありません。
SNSや海外メディアの見出しでは「ついに完結へ」と強いトーンが目立ちますが、一次情報に忠実に整理すれば、「結末は用意されている」「作者には完結させる意思がある」「ただし時期は未定」という三つのポイントに集約されます。期待を膨らませつつも、事実と希望を分けて受け止めることが、今の段階ではもっとも健全なスタンスだといえるでしょう。
休載に至った経緯と近年の“再接続”
『NANA』は2000年から「Cookie」で連載が始まり、瞬く間に国境を越えて読まれる大ヒット作となりました。しかし2009年、矢沢あいさんが体調を崩したことをきっかけに、連載は無期限休載へ。その後も正式な再開はなく、未完のまま長い年月が過ぎていきます。ファンの間では“幻の続き”として語られながらも、結末への期待は消えることがありませんでした。
それから十数年。矢沢さんは創作活動を休止しつつも、少しずつ表舞台に姿を現し始めます。2022年から23年にかけて開催された大規模展覧会『ALL TIME BEST 矢沢あい展』では、過去作の原画や資料が公開され、作品世界が改めて注目を浴びました。この展示は多くのファンにとって「再会」の場となり、矢沢作品が今も愛され続けていることを強く印象づけました。
さらに2025年にはユニクロとのコラボレーションが発表され、Tシャツやグッズとして『NANA』のビジュアルが再び街に登場。出版面でも、今回の公式ムック『矢沢あい「NANA」の世界』が刊行され、作者自らの言葉が届けられたことは大きな出来事でした。これらの動きは、単なる“懐かしの名作”にとどまらず、作品と読者を再び結びつける役割を果たしています。
重要なのは、こうした展覧会やコラボ、書籍が「連載再開」を直接意味するわけではないという点です。しかし、矢沢さん自身が公式に発信を始め、物語の結末について「必ず終わらせたい」と語った事実は、長く待ち続けてきたファンにとって大きな希望の光となりました。いわば“再接続”のプロセスが着実に進んでいると言えるでしょう。
完結へ向けた“あり得る道筋”(考察)
長い休載を経て、『NANA』の時計がふたたび動きはじめた──読者が今感じているのは、歓声よりも小さな息をのむ音かもしれません。「最終段階」「結末はほぼ決まっている」。作者のこの言葉は、暗い劇場で幕がわずかに持ち上がる瞬間の光に似ています。では、その幕がどう上がるのか。私は三つの“開幕”を想像します。
ひとつは、週ごと月ごとに少しずつ舞台が進む限定的な再開。連載を追いかける喜びは格別で、発売日の朝にページをめくる手の震えまで思い出させてくれるはず。ただし、息を切らさず走り切るには綿密な準備がいる。走者にとっても、伴走する編集部にとっても、体力の総合戦です。
もうひとつは、大きな一撃で決める長編読切。読者は一気に物語の核心へ運ばれ、余韻の長さで“終わりの手触り”を噛みしめることができる。映写機が一度だけ強い光を放つ、映画的フィナーレ。見届ける側としては、正座して待つ覚悟が要る方式です。
三つ目は、終章をいくつかの“段”に分けるやり方。橋を渡るように、章と章を踏みしめて前へ進む。この方式の良さは、読者が“前進している手応え”を何度も味わえること。間に呼吸を置きながら、言葉や表情の温度を丁寧に整えられるのも魅力です。
どれが選ばれても、大切なのは「作者の健やかさ」と「物語の純度」を守ること。十余年の沈黙の間にも、ナナとハチは読者の心の内で暮らし続けてきました。未読の巻を揃え直す人、映画版やサントラで当時の空気に浸り直す人、推しのセリフをノートに書き写す人。待つという行為は、ただ立ち尽くすことではなく、作品世界に灯を絶やさないことでもあります。
だからこそ、今は「事実」と「願望」をそっと分けて置いておきましょう。確かなのは、結末が用意され、終わらせる意思があるということ。時期はまだ白紙。けれど白紙の余白は、最終章の一行目が滑り出すための余白でもあります。ページがめくられるその日、私たちはきっと思い出すはず。初めてこの物語に出会った時の胸の高鳴りを。長い夜のあとに差し込む朝の光のように、エンドマークは必ず似合う形でやって来る――そう信じて、静かに席を温めておきましょう。
既刊の読み返しガイド

1. ナナとハチ、ふたりの視点で物語を追う
『NANA』の最大の魅力は、ロックシンガーの大崎ナナと、恋に揺れる小松奈々(ハチ)という正反対のふたりを並行して描く構造にあります。再読する際には、どちらの視点に立つかで物語の印象が大きく変わります。ナナの視点では、BLACK STONESのボーカルとして成功していく一方で、恋人レンとの関係や、ハチとの友情が徐々にすれ違っていく切なさが際立ちます。ハチの視点では、ノブへの想いと巧への現実的な選択に揺れる姿、母となる覚悟と同時に失っていく自由が鮮烈に感じられます。どちらの立場に共感するかで、同じシーンの意味がまったく異なる作品なのです。
2. 細部に散りばめられた予兆と伏線
再読で注目したいのは、物語に散りばめられた“予兆”です。例えばレンの死へとつながる不穏な空気は、彼が薬物に溺れていく描写やレイラとの関係にすでに影を落としています。シンの孤独や危うさも、初読では気づきにくい伏線として繰り返し描かれています。さらに、未来からの回想という形式で語られるモノローグは、ナナが行方不明になることや、仲間たちがそれぞれ別の道を歩むことを前提にしています。これらの“未来の断片”を踏まえて読み返すと、登場人物の一つひとつの行動や沈黙が、避けられない結末に向けて積み重なっていることがよくわかります。
物語の“語り手”が置く仄暗い地平線 —— 未来モノローグの役割

『NANA』の語りはしばしば未来からの回想で進みます。読者は冒頭から「ナナがどこかへ消える」「みんなが別々の場所で暮らしている」ことを知らされる。これは物語上の“答え合わせ”ではなく、現在の幸福に影を落とす照明です。私たちは、楽しげな同居・結成・初ライブのシーンを見ながら、すでに失われた後の静けさを知っている。結果、何でもない会話や小さな選択が、将来の意味を帯びて重く響きます。
この“先に知ってしまっている不在”が、作品全体の切なさの源。読者は「いつ」「どこで」「なぜ」すれ違いが決定的になるのかを探りながら読み進め、同時に“避け得たかもしれない分岐”を無意識に計算し続けます。
レンの死は“事件”ではなく“連鎖” —— 螺旋の中心にあるもの
レンの死は物語の大きな節目ですが、突然の一点突破ではなく、徐々に濃くなる陰影の連鎖として描かれます。薬物への依存、レイラとの距離、名声が増すほど細くなる心の通路。ナナとレンは互いを必要としながら、音楽という救いが時に刃にもなる場所に立たされる。
再読すると、初期の“幸福な静けさ”にも微細なノイズが混じっていることに気づきます。視線が逸れる一瞬、曲づくりの言葉が噛み合わない小さな間、ステージと楽屋での温度差。これらは“その日”の予兆の粒で、未来モノローグが示す地平線に向かって、確率的に物語を運んでいきます。だからこそレンの最期はショックであると同時に、脈絡の中にある痛みとして胸に沈むのです。
ハチの選択は“裏面の物語”を動かす
小松奈々(ハチ)は、いつも即興の現実対応で生き延びます。巧を選ぶこと、母になること、ノブへの気持ちに区切りをつけること。それらは“優柔不断”ではなく、人と生きる現実を引き受ける意思決定です。
ハチの決断は正しさ一色では語れませんが、彼女が負った責任が、他の誰かを生かす構図になっているのが『NANA』の骨格。ハチの“日常の重し”があるから、ナナは“非日常の舞台”に立ち続けられる。ふたりは鏡像で、どちらかが軽くなれば、もう一方が沈む。ハチの物語を「誰かを選ぶ=誰かを選ばない」の往復として読むと、終盤のそれぞれの立ち位置が驚くほど鮮明になります。
レイラ/シン/ヤス —— 主役を動かす「気圧計」
脇役たちは“事件の主役”ではなく、空気の変化を可視化する気圧計です。
- レイラは「愛されること」と「歌い続けること」の接線上を歩き、孤独の透明度でバンドの空気を示す。
- シンは危うさと純度の振り幅で、グループの“臨界点”を先に鳴らすアラーム。
- ヤスは安定と倫理の支柱だが、支えるほど自らの欲望は沈殿し、“良い人”の代償が増す。
彼らの“黙る・逸らす・微笑む”といった小さな動作が、物語の向かう風向きを先んじて教えてくれます。
“音楽”は登場人物の翻訳機

『NANA』では、音楽が言葉の翻訳を引き受ける場面が多い。言えないこと、届かないこと、嘘にしなければ守れないことを、歌・演奏・歌詞が代理で伝えるのです。ナナの声が荒れる夜は、言葉で誤魔化せなくなった夜。ライブ後の静けさは、人間関係の“沈黙の要約”でもある。
再読では、曲名や歌詞の断片、セットリストの順にも注目すると、人物の心拍が楽曲側に転写されているのが見えてきます。
“行方不明のナナ”は何を語っているか
未来視点が示唆するナナの不在は、単なるミステリーではありません。読者に突きつけられているのは「成功と喪失の両立は可能か」「愛と自由の両立は可能か」という問いです。ナナは“ステージの輝き”を保つほど、私生活の言葉を失っていく。逆にハチは“生活の言葉”を増やすほど、ステージから離れる。
このシーソーの均衡が、物語の本当の緊張です。行方不明の知らせは、彼女の“敗北”の印ではなく、この均衡がどこへ落ち着くのかを読者に考えさせる装置。最終盤でハチが語る回想は、失われたものだけでなく、残ったもの/渡されたものを数える作業でもあります。
結末に向けて“待つ”という参加
『NANA』の終盤は、誰かが勝ち、誰かが負ける話ではありません。何を守り、何を手放すかの再配置です。レンの不在、レイラの孤独、シンの行方、ヤスの沈黙。どれも“無傷の幸福”という幻想を解体しながら、生き延びるための現実的な愛を置いていく。
そして読者の役割は、結末の日付当てではなく、この再配置の意味を受け止める準備をすること。既刊を読み返すときは、①誰が誰の代わりに何を引き受けたか、②どの沈黙が何を守ったか、③どの歌が誰の翻訳だったか——この三点だけ意識してください。最終章にたどり着いたとき、きっと“あの時の選択は、このためにあったのか”と線がつながります。
『NANA』は“悲劇を消費する物語”ではなく、喪失のあとに残る関係のかたちを描く長い観察記録です。未来視点は希望を奪うためではなく、今この瞬間を丁寧に見るための光。結末が近づくほど、初期の笑顔は痛いほど美しく、しかし確かに力をくれます。——その力で、終幕を見届けましょう。
🌙 「待つ時間もまた、NANAの物語の一部