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日本人初の宇宙飛行は毛利衛さんではない?秋山豊寛さんが先だった理由、なぜTBS記者が宇宙へ

日本人初の宇宙飛行は毛利衛さんではない?秋山豊寛さんが先だった理由

秋山豊寛さんと毛利衛さんの2つの日本人初の宇宙飛行記録を比較したアイキャッチ

2026年9月1日、日本人として初めて宇宙へ行った秋山豊寛さんが、8月26日に84歳で亡くなっていたことが伝えられました。

秋山さんは元TBS記者。1990年12月2日、旧ソ連の宇宙船「ソユーズTM-11」に乗り込み、日本人として初めて宇宙へ飛び立った人物です。

ここで、

「日本人初の宇宙飛行士は毛利衛さんでは?」

と思った人もいるかもしれません。

毛利衛さんも間違いなく「日本人初」の記録を持っています。ただし、秋山さんとは意味が違います。

JAXAの整理は明快です。

日本人として最初に宇宙へ行った人
=秋山豊寛さん

日本人として最初にNASAのスペースシャトルで宇宙へ行った人
=毛利衛さん

では、なぜNASAや日本の宇宙開発事業団(NASDA、現在のJAXA)が選んだ毛利さんよりも、テレビ局の記者だった秋山さんの方が先に宇宙へ行くことになったのでしょうか。

そこには、1986年のチャレンジャー号事故と、TBSが旧ソ連と進めた異例の「宇宙特派員計画」という、まったく別の二つの宇宙計画がありました。

日本人で最初に宇宙へ行ったのは秋山豊寛さん

秋山豊寛さんが宇宙へ飛び立ったのは、1990年12月2日。

場所は現在のカザフスタンにあるバイコヌール宇宙基地でした。

旧ソ連の宇宙船「ソユーズTM-11」に搭乗し、2日後の12月4日に宇宙ステーション「ミール」へ到着。ミールに約6日間滞在した後、12月10日に「ソユーズTM-10」で地球へ帰還しました。

JAXAの最新データでは、打ち上げから帰還までの宇宙滞在は189時間54分。TBSの番組記録では189時間55分とされています。

細かな丸め方に差がありますが、およそ190時間、約8日間に及ぶ宇宙飛行だったと考えれば分かりやすいでしょう。

なお、「秋山さんはミールに9日間いた」と紹介されることがありますが、これは正確ではありません。

宇宙飛行全体が12月2日から10日までに及んだ一方、JAXAと放送ライブラリーはいずれも、ミールでの滞在は6日間としています。

12月2日は、この飛行にちなんで「日本人宇宙飛行記念日」として知られています。

12月2日は何の日?日本人宇宙飛行記念日など記念日・由来まとめ

毛利衛さんは何が「日本人初」だった?

一方の毛利衛さんが宇宙へ飛び立ったのは、秋山さんから約1年9か月後の1992年9月12日です。

搭乗したのはNASAのスペースシャトル「エンデバー」。

毛利さんは第1次材料実験「FMPT」、通称「ふわっと'92」の搭乗科学技術者として参加しました。

宇宙では材料分野やライフサイエンス分野など、日米合わせて43テーマの実験が行われています。

つまり、

秋山豊寛さん毛利衛さん
初飛行1990年12月2日1992年9月12日
「日本人初」日本人として最初に宇宙へ日本人として最初にスペースシャトルへ
所属・立場TBS社員・宇宙特派員NASDAの搭乗科学技術者
宇宙船ソユーズTM-11スペースシャトル・エンデバー
主な活動報道・中継・実験宇宙実験

という違いがあります。

「毛利衛さんが日本人初というのは間違いだった」のではありません。

秋山さんと毛利さんには、それぞれ別の「日本人初」がある。

まずここを分けて考える必要があります。

なぜ秋山豊寛さんが毛利衛さんより先に宇宙へ行った?

では、なぜTBS記者だった秋山さんが、NASDAが選抜した毛利さんよりも先に宇宙へ行ったのでしょうか。

最大のポイントは、毛利さんが参加する宇宙計画が当初の予定から大幅に遅れたことです。

毛利さんは1985年、向井千秋さん、土井隆雄さんとともに、NASDAの第1次材料実験の搭乗科学技術者候補として選ばれました。

この時点では、日本の公的な有人宇宙計画が先に進んでいました。

そして毛利さんが参加するFMPTの飛行は、もともと1988年1月に予定されていました。

秋山さんが飛ぶ1990年12月より、約3年も早い日程です。

ところが1986年1月28日、NASAのスペースシャトル「チャレンジャー」が打ち上げ直後に事故を起こし、乗組員7人全員が死亡しました。

スペースシャトルの飛行は長期間停止。

JAXAはFMPTについて、

チャレンジャー号の事故などによって4年以上遅れた

と説明しています。

スペースシャトルはその後運航を再開しましたが、計画は当初の1988年から1992年へ。

その空白の期間に実現したのが、TBSと旧ソ連による宇宙特派員計画でした。

つまり秋山さんと毛利さんは、同じ「日本人初」の座を競っていたわけではありません。

NASDA+NASA+スペースシャトル

と、

TBS+旧ソ連+ソユーズ

という別々のルートで宇宙を目指していたのです。

その二つの計画の進行が入れ替わった結果、秋山さんが先に宇宙へ到達しました。

チャレンジャー事故がなければ毛利衛さんが日本人初だった?

当初予定だけを比べれば、その可能性はありました。

毛利さんが参加するFMPTは1988年1月に予定されていたため、予定どおり実施されていれば、秋山さんの1990年12月より先になります。

ただし、

「チャレンジャー事故さえなければ、必ず毛利さんが日本人初になっていた」

とまでは言えません。

スペースシャトルの打ち上げスケジュールは、機体やエンジンなどの技術的な問題でも変更されることがあります。

JAXA自身も「チャレンジャー号の事故など」による延期と説明しています。

正確に言えるのは、

当初の1988年1月という計画がそのまま実現していれば、秋山さんより先になる予定だった

というところまでです。

なぜTBSの記者が宇宙へ行けた?

そもそも、なぜテレビ局が自社の社員を宇宙へ送ることができたのでしょうか。

秋山さんの飛行は、日本政府やNASDAが進めた宇宙飛行士計画とは別に、TBSが進めた「宇宙特派員計画」から生まれました。

放送ライブラリーによると、計画が正式に発足したのは1989年3月27日。

TBSの創立40周年企画に位置づけられ、旧ソ連側と協力して、テレビ局のジャーナリストを宇宙ステーション「ミール」へ送り、宇宙から報道するという前例のないプロジェクトでした。

当時の日本の有人宇宙飛行はNASAとの協力を軸に進んでいましたが、TBSは旧ソ連という別ルートを選びました。

冷戦末期とはいえ、米ソがそれぞれ独自の有人宇宙飛行システムを持っていた時代です。

米国にはスペースシャトル。

旧ソ連にはソユーズと宇宙ステーション「ミール」。

日本のテレビ局が、その旧ソ連の宇宙開発に入り込む形で計画を実現させたことになります。

秋山さんはただの「宇宙旅行客」だったわけではない

「テレビ局がお金を払って記者を宇宙へ乗せただけ」という印象を持つかもしれませんが、秋山さんは訓練なしでソユーズに乗ったわけではありません。

TBSは社員を対象に宇宙特派員を募集。

選考を経て、秋山さんと菊地涼子さんが候補となり、2人とも旧ソ連で宇宙飛行に向けた訓練を受けました。

秋山さんは後年、訓練では緊急事態への対応が大きな割合を占めていたと振り返っています。

ソユーズやミールでの生活だけでなく、何か問題が起きたときにどう行動するのかまで身につけなければ、実際の宇宙船には乗れません。

秋山さんはそうした訓練を経て、宇宙へ飛び立ちました。

「テレビ番組のための体験旅行」と呼ぶには、あまりにも本格的なプロジェクトだったのです。

秋山豊寛さんはJAXAの宇宙飛行士ではなかった?

秋山さんはNASDA、現在のJAXAに所属する宇宙飛行士ではありません。

ここは毛利衛さんらと大きく違います。

ただし、

「だから秋山さんは正式な宇宙飛行士ではなかった」

という説明も正確ではありません。

JAXAは公式FAQで秋山さんを日本人として最初に宇宙へ行った人物として紹介しています。

さらに過去の有人宇宙活動シンポジウムでは、秋山さんを

「ジャーナリスト、宇宙飛行士」

と紹介し、毛利さん、向井千秋さん、若田光一さん、野口聡一さんらとともに登壇者として扱っています。

つまり、

JAXA所属の宇宙飛行士ではない
ことと
宇宙飛行士ではない
ことは別です。

秋山さんはTBSの記者として選ばれ、旧ソ連で訓練を受け、実際にソユーズで宇宙へ行った宇宙飛行士でした。

宇宙では何をしていた?

秋山さんの最大の任務は「宇宙特派員」です。

宇宙から地球の映像を送り、ミールでの生活や地球環境についてリポートしました。

放送ライブラリーには、1989年の計画発足から1990年12月10日の帰還まで、624日間を追ったTBSの記録番組が保存されています。

そこにはミール滞在中、地球の環境汚染についてリポートしたことや、さまざまな実験を行ったことも記録されています。

実験の中には、カエルを使ったものもありました。

無重力状態でカエルがどのような姿勢や行動を示すのかを調べる実験で、秋山さん自身も宇宙での科学活動に参加しています。

もちろん、43テーマもの実験を行った毛利さんのFMPTとは、ミッションの主目的が違います。

毛利さんの中心は科学実験。

秋山さんの中心は報道。

それでも秋山さんは、カメラの前で話すだけの乗客ではありませんでした。

「これ、本番ですか?」は本当に宇宙からの第一声だった

秋山さんの宇宙飛行を語るとき、今も残っている有名な言葉があります。

「これ、本番ですか?」

宇宙からの生中継で発した一言です。

作られた都市伝説ではありません。

しかも後年、秋山さん本人が、なぜこの言葉が出たのか説明しています。

事前の打ち合わせよりも、地上のアナウンサーからの呼びかけが5秒早かったため、

「これ、本番ですか?」

と思わず確認したのだそうです。

宇宙へ到達した日本人の歴史的な第一声としては、あまりに日常的です。

しかし、そこには「宇宙飛行士になるために人生を歩んできた研究者」ではなく、最後まで現場のジャーナリストだった秋山さんらしさも見えます。

なぜ毛利衛さんの方が「日本人初」の印象が強い?

秋山さんが先に宇宙へ行っていたことを今回初めて知った人もいるでしょう。

では、なぜ「日本人初の宇宙飛行士」と聞いて毛利衛さんを思い浮かべる人が多いのでしょうか。

一つの理由として考えられるのが、毛利さんが日本の公的な有人宇宙開発の第一世代だったことです。

1985年、NASDAは毛利衛さん、向井千秋さん、土井隆雄さんを宇宙飛行士として選抜しました。

その後、日本の有人宇宙開発はスペースシャトル、国際宇宙ステーション、「きぼう」日本実験棟へとつながっていきます。

JAXAが自らの宇宙飛行士の歴史を語る場合、その出発点として毛利さんらが登場するのは自然です。

さらに毛利さんが宇宙へ飛び立った9月12日は「宇宙の日」に選ばれています。

毎年、JAXAのイベントや小中学生向け作文・絵画コンテストなどを通じて9月12日が紹介されてきたため、毛利さんの初飛行に触れる機会は長く続いています。

毛利さんはその後も日本科学未来館館長などを務め、科学教育の分野で広く知られる存在になりました。

一方の秋山さんは、TBSという民間企業から旧ソ連へ向かった極めて特殊なルートでした。

その違いが、「日本人初」という言葉から思い浮かべる人物の差につながっているのかもしれません。

日本人初の宇宙飛行を時系列で見ると分かりやすい

二人の飛行を年表にすると、なぜ秋山さんが先になったのかがよく分かります。

年月出来事
1985年8月NASDAが毛利衛さん、向井千秋さん、土井隆雄さんを選抜
1986年1月28日スペースシャトル「チャレンジャー」事故
1988年1月毛利さんが参加するFMPTの当初飛行予定
1989年3月27日TBS宇宙特派員計画が発足
1990年12月2日秋山豊寛さんがソユーズTM-11で宇宙へ
1990年12月10日秋山さんが地球へ帰還
1992年9月12日毛利衛さんがエンデバーで宇宙へ

二つの計画は途中まで別々に走っていました。

NASA側の計画は事故などで長く止まる。

その間もTBSと旧ソ連の計画は進む。

そして1990年、秋山さんが先に宇宙へ到達した。

この時系列が、日本人初の宇宙飛行をめぐる「秋山さんと毛利さん、どちらが初なのか」という疑問への一番分かりやすい答えです。

宇宙から戻った秋山さんは、やがて農業へ

秋山さんは宇宙飛行後もTBSで活動しましたが、1995年に退社。

その後は福島県で有機農業に取り組みました。

2011年の福島第一原発事故後は福島を離れ、群馬や京都へ移住。京都造形芸術大学、現在の京都芸術大学で教授を務めた後、晩年は三重県大台町で農業や執筆活動を続けていました。

宇宙飛行士、ジャーナリスト、そして農業。

一見するとまったく違う人生に見えます。

ただ秋山さんは宇宙から地球環境をリポートし、その後も自然や食、環境について考え続けました。

宇宙へ行ったことだけで秋山さんの人生が終わったわけではなく、むしろ1990年の飛行後にも長い時間が続いていたことが分かります。

まとめ|秋山豊寛さんと毛利衛さん、二つの「日本人初」

日本人として最初に宇宙へ行ったのは、

秋山豊寛さん。

1990年12月2日、旧ソ連のソユーズTM-11で宇宙へ飛び立ちました。

日本人として最初にNASAのスペースシャトルへ搭乗したのは、

毛利衛さん。

1992年9月12日、スペースシャトル「エンデバー」で宇宙へ向かいました。

毛利さんの宇宙飛行は、もともと1988年に予定されていました。

しかしチャレンジャー号事故などによって4年以上延期。

その間に、TBSが旧ソ連と進めた宇宙特派員計画が実現し、秋山さんが一足先に宇宙へ到達しました。

だからといって、

「毛利衛さんは日本人初ではなかった」

と切り捨てるのも違います。

秋山さんは、日本人として初めて宇宙へ。

毛利さんは、日本人として初めてスペースシャトルへ。

そして秋山さんはJAXAの宇宙飛行士ではなく、TBSの記者として旧ソ連で訓練を受け、まったく別の道から宇宙へ向かいました。

日本の有人宇宙飛行は、一つの計画から一直線に始まったわけではありません。

NASAへ向かう公的な宇宙開発と、旧ソ連へ向かったテレビ局の宇宙特派員計画。

二つの別々の道が同じ時代に進み、その順番が歴史の途中で入れ替わった。

その結果生まれたのが、1990年12月2日の「日本人初」でした。

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