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1997年の27時間テレビはなぜ“異色”だった?ダウンタウン一度きりの総合司会、台風直撃と「さんま代役説」を追う

1997年27時間テレビはなぜ異色?ダウンタウン一度きりと「さんま代役説」を検証

1997年のFNS27時間テレビをイメージしたイラスト、台風直撃による生放送の予定変更と一度きりの総合司会を表現

1997年7月26日から27日にかけて放送された『疾風怒濤!FNSの日スーパースペシャルXI 真夏の27時間ぶっ通しカーニバル ~REBORN~』は、『FNSの日』の歴史を振り返るとかなり異質な一回です。

総合司会はダウンタウン。前年まで続いていたBIG3を軸とするカラーから大きく方向を変え、移転したばかりのお台場・フジテレビ新社屋から放送されました。

ところが、ダウンタウンが総合司会を務めたのはこの一度だけ。平均視聴率は11.6%で、当時の『FNSの日』として最低を記録しました。さらに本番では大型台風が直撃し、予定していたプロ野球中継や屋外企画が次々と変更されています。

そのため後年、「ダウンタウンの27時間テレビは失敗だった」とひとことで語られることもあります。

しかし、当時のラジオ音源や制作スタッフの証言まで遡ると、事情はそれほど単純ではありません。

先に結論をまとめると

1997年版は、フジテレビのお台場移転に合わせて番組そのものを「REBORN」させようとした大規模な刷新でした。しかし、放送直前まで番組体制が二転三転していたことをナインティナインが本番4日後のラジオで証言しています。

そこへ本番当日に台風9号が直撃。約3時間を想定していた中日-巨人戦が中止となり、大型屋外企画も変更を余儀なくされました。

平均視聴率11.6%という結果になったのは事実ですが、「ダウンタウンが27時間テレビを回せなかったから失敗した」とだけ説明するのは、当時の状況をかなり単純化してしまいます。

なお、「本来の総合司会は明石家さんまで、直前にダウンタウンへ交代した」という説についても調べましたが、現時点で直接裏付ける資料は確認できませんでした。この点は後半で詳しく検証します。

1997年の27時間テレビはどんな番組だったのか

まず、1997年版の基本情報を整理しておきます。

項目内容
正式タイトル疾風怒濤!FNSの日スーパースペシャルXI 真夏の27時間ぶっ通しカーニバル ~REBORN~
放送日時1997年7月26日18時~7月27日20時54分
放送時間26時間54分
総合司会ダウンタウン(浜田雅功・松本人志)
テーマREBORN
総合演出・総合プロデューサー水口昌彦
平均視聴率11.6%(関東地区。当時の『FNSの日』最低)

この年を理解するうえで重要なのが「REBORN」というテーマです。

フジテレビは1997年、長年本社を置いていた新宿区河田町から港区台場へ本社を移転しました。1997年版は、新しいお台場本社から放送する最初の『FNSの日』でした。

さらに同年4月1日には、さくらんぼテレビと高知さんさんテレビが開局し、FNSは28局体制となっています。

つまり「REBORN」は、単に番組の雰囲気を変えるためのキャッチコピーではありません。

河田町からお台場へ移ったフジテレビと、『FNSの日』そのものを一緒に生まれ変わらせる。

そんな意味を持った企画だったと見る方が自然です。

BIG3中心だった『FNSの日』を一気に変えた1997年

前年までの『FNSの日』には、タモリ、ビートたけし、明石家さんまといった、いわゆるBIG3の存在が強くありました。

1987年の第1回『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』ではタモリと明石家さんまが総合司会。1992年以降は『平成教育テレビ』を軸にビートたけしが中心となり、1995年、1996年の「夢列島」復活後もBIG3世代の色が濃く残っています。

そこから1997年は、ダウンタウンを総合司会に据えました。

番組制作の中心にいたのは水口昌彦。水口は『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』のプロデューサー・演出でもあり、番組内にも音楽企画や『HEY!HEY!HEY!』と縁の深い出演者が数多く登場しました。

フジテレビで長く『FNSの日』に携わった三宅恵介も、2018年のインタビューで、河田町最後の1996年に続く1997年について「その次がお台場でダウンタウンが司会だった」と振り返っています。

1997年は単なる司会者変更ではなく、番組を支える世代と制作カラーそのものを大きく入れ替えようとした年だったのです。

ところが番組は「直前まで二転三転」していた

ここで非常に重要な証言があります。

1997年7月31日、本番終了からわずか4日後に放送された『ナインティナインのオールナイトニッポン』です。

当時の放送音源を確認すると、岡村隆史は27時間テレビについて、次のような趣旨で話しています。

「今回の27時間テレビ、直前まで二転三転してしまいまして、決まらなかったんですよね」

矢部浩之も「決まらなかったんですよね。なかなかね」と応じています。

さらに岡村は、誰がメインを務めるのかについても「ほとんど直前」になってから知ったと説明。そのうえで「どうやらダウンタウンさんでやるらしい」と聞いたという流れを語っています。

その後、ダウンタウンとナインティナインが深夜のゲーム企画で本格的に絡む可能性を知らされたのは、本番の3日ほど前だったという話へ続きます。

ここから確認できるのは、少なくとも出演者であるナインティナインから見ても、1997年版はかなり直前まで番組体制が流動的だったということです。

ただし注意したいのは、この証言だけで「ダウンタウンの総合司会が本番直前に初めて決まった」とまでは断定できないことです。

制作側では先に決定していて、出演者への伝達だけが遅かった可能性もあります。

それでも岡村自身が番組全体について「直前まで二転三転」「決まらなかった」と話している以上、最初からすべてが盤石に固まっていた番組ではなかったことはうかがえます。

そこへ本番当日、台風9号が直撃した

ただでさえ流動的だった番組に、さらに予想外の出来事が重なりました。

台風9号です。

気象庁の記録によると、台風9号は1997年7月26日17時過ぎ、強い勢力で徳島県阿南市付近に上陸しました。

27時間テレビのスタートは同日18時。

台風上陸からおよそ1時間後に、27時間の生放送が始まったことになります。

室戸岬では最大瞬間風速52.2m/sを記録。四国から東海地方にかけて暴風や大雨となり、全国の交通にも大きな影響が出ました。

フジテレビが2024年に公開した当時の美術スタッフ・塩入隆史の回顧でも、1997年について「台風が直撃したことで番組冒頭から企画内容が大きく変わった」と説明されています。

しかも変更は放送開始前だけではなく、生放送中にも発生していました。

屋外の「お台場ゲームバトル」はセットも機械も使えなくなった

象徴的なのが「お台場ゲームバトル」です。

当初はお台場の屋外特設会場に大勢の観客を入れて実施する大型企画として準備されていました。

しかし台風による雨で公開放送は中止。

さらに屋外に設置していた美術セットが濡れ、使用予定だった機械まで故障しました。

そこでスタッフは急きょ仮設テントを設置。その中で「ぷよぷよ」を使った対決を行う形へ変更しています。

現在のフジテレビ公式美術ページでも、この出来事は1997年版を代表するハプニングとして振り返られています。

翌27日は天候が回復し、全国フリースロー企画や各地から船で食材を運ぶ企画などは放送できました。

とはいえ、番組が始まった時点で複数の大型企画が予定通りに進まなくなっていたことは間違いありません。

さらに約3時間を予定していた中日-巨人戦が消えた

1997年版の混乱を考えるうえで、屋外企画以上に大きかった可能性があるのがプロ野球です。

7月26日にはナゴヤドームで中日-巨人戦が予定され、27時間テレビ内でも中継する計画になっていました。

ナゴヤドームなら、雨が降っても試合はできます。

ところがこの日は、台風による交通機関の乱れなどを考慮して試合そのものが中止されました。1997年に開場したナゴヤドームにとって、公式戦の開催中止は初めての出来事でした。

この一件については、2004年放送の『松本人志の放送室』でも松本人志と放送作家の高須光聖が振り返っています。

当時スタッフ側にいた高須によれば、制作側では野球が約3時間入る予定になっており、「ドームだから試合は行われる」という前提で考えていたため、その時間を丸ごと埋めるような代替企画を十分に準備していなかったという趣旨の説明をしています。

つまり1997年版は、放送開始直前に約3時間を占めるはずだった巨大な番組ブロックそのものが消えたことになります。

単なる「予定変更」として片付けるには、影響が大きすぎます。

なぜ1997年版はあれほど「グダグダ」に見えたのか

ここまでを重ねると、当日の状況がかなり分かりやすくなります。

放送前から番組体制が二転三転していた。

そこへ台風9号が接近し、放送開始直前にプロ野球の約3時間枠が消滅。

屋外の大型企画も実施できなくなり、準備していた機械まで故障。

通し企画だった船の移動にも影響が出ています。

それでも26時間54分の生放送は止められません。

2004年の『放送室』で松本と高須は、1997年版をかなり「グダグダ」だった回として振り返っています。

ただし、松本自身は自分としてはそれなりに楽しんで出演していたとも話しており、番組終了後に周囲から「大変だった」と言われたことで、外からの見え方との違いを感じたという趣旨の話もしています。

さらに二人は、番組全体を通して視聴者を次の展開へ引っ張る仕掛けが乏しかったことにも言及しています。

三宅恵介も後年、野球中継の中止や船企画の混乱を挙げながら、1997年について「ダウンタウンがかわいそうだった」と振り返りました。

こうした証言を見る限り、1997年版を「ダウンタウンの司会力の問題」だけで説明するのは無理があります。

本来の設計図そのものが、放送開始前後から次々と崩れていった番組だったからです。

平均視聴率11.6%は当時の最低だった

とはいえ、数字として厳しい結果が残ったことも事実です。

1997年版の平均視聴率は11.6%。当時の『FNSの日』では最低の数字でした。

年主な総合司会平均視聴率
1996年ビートたけしほか14.4%
1997年ダウンタウン11.6%
1998年中居正広12.1%
1999年中居正広13.3%
2000年中居正広13.9%

ただし「11.6%=現在までの歴代最低」ではありません。

その後、2001年の11.4%、2003年の10.3%、2013年の9.8%、2016年の7.7%など、1997年を下回る年も出ています。

したがって正確には、1997年当時の歴代最低です。

なぜダウンタウンの総合司会は一度きりだったのか

結果として、ダウンタウンが『FNSの日』の総合司会を務めたのは1997年だけになりました。

翌1998年は中居正広が総合司会となり、総合プロデューサーも水口昌彦から荒井昭博へ、総合演出も別体制へ移っています。

タイトルにも再び「夢列島」が入り、1998年から2000年まで中居正広を中心とした体制が続きました。

そのため「1997年の視聴率が悪かったからダウンタウンが降ろされた」と結び付けたくなります。

しかし、そこは分けて考える必要があります。

11.6%という結果と、翌年に総合司会・制作体制が変わったことは確認できます。

一方で、「11.6%だったためダウンタウンを降板させた」「失敗の責任を取って水口体制を終了した」と明確に説明した一次資料は、今回確認できませんでした。

したがって、因果関係まで断定することはできません。

ただ、1997年の体制が翌年そのまま継続されなかったことは確かです。

結果だけを見れば、「REBORN」を掲げた1997年版は、シリーズ化される新体制ではなく一度限りの大規模な実験になりました。

「本当は明石家さんまが総合司会だった」は事実なのか

1997年版について調べていると、もう一つ気になる話に行き着きます。

「本来は明石家さんまが総合司会を務める予定だったが、放送直前に降り、ダウンタウンが急きょ代役を引き受けた」という説です。

なかには「約2週間前に交代した」「さんまがドタキャンした」といった、かなり具体的な形で語られることもあります。

今回、この説について当時資料、後年の制作関係者証言、ラジオ音源まで含めて確認しました。

結論から言えば、現時点では事実として採用できません。

1997年に明石家さんまが総合司会へ正式決定していたこと、その後辞退したこと、ダウンタウンがその代役だったことを直接示す公開資料は確認できませんでした。

論点今回の確認結果
1997年本番の総合司会はダウンタウン確認済み
番組体制が直前まで二転三転していた当時のナイナイANNで確認
当初の総合司会候補にさんまがいた確認できず
さんまに正式決定していた確認できず
約2週間前にさんまが辞退した確認できず
ダウンタウンが急きょ代役になった確認できず
さんまが「ドタキャン」した裏付けがなく、使用できない表現

ただし「直前まで何かが動いていた」こと自体は確認できた

ここが、この説を単純な都市伝説として切り捨てにくいところです。

先ほど紹介した1997年7月31日の『ナインティナインのオールナイトニッポン』で、岡村は番組が「直前まで二転三転」しており、誰がメインなのかも「ほとんど直前」まで知らなかったと話しています。

つまり、1997年の番組体制が直前まで流動的だったことそのものには、当時の証言があります。

しかし、その「二転三転」の中に明石家さんまがいたとは一言も語られていません。

「別のメイン候補がいた」のか、「ダウンタウンとの最終調整が遅れていただけ」なのか、「番組構成そのものが決まらなかった」のかも、この音源だけでは判断できません。

さんま本人は本番翌日のラジオで何を話していたのか

もう一つ重要なのが、1997年7月28日放送の『明石家さんまのG1 Grouper』です。

27時間テレビ終了の翌日にあたり、さんま本人が番組の裏側をかなり長く話しています。

当時の音源を確認すると、27時間テレビの話題は何度も登場し、総合演出・総合プロデューサーだった水口昌彦の名前も繰り返し出てきます。

デニス・ロッドマンの機嫌が悪いとスタッフから伝えられた際のエピソードでは、さんまが「水口に言え」という趣旨のやり取りを紹介しており、さんまと水口が当日の制作現場で直接やり取りする関係だったこともうかがえます。

ところが、27時間テレビについてこれだけ話しているにもかかわらず、確認した範囲では、

「自分が総合司会をやる予定だった」

「自分が断ってダウンタウンになった」

「ダウンタウンが代役として入った」

といった発言は出てきません。

もちろん、話さなかっただけという可能性は残ります。

したがって「発言がない=説が誤り」とまでは言えませんが、もし「正式決定済みの総合司会を直前に降板した」というほど大きな出来事が本当にあったのであれば、本番翌日の長い27時間テレビ談義でも一切触れられない点は気になります。

なぜ「さんま→ダウンタウン説」が生まれたのか

今回調べていて興味深かったのは、1997年説によく似た「実話」が少なくとも二つ存在していたことです。

1988年には、本当にさんまが『FNSの日』総合司会を断っている

第1回の1987年『テレビ夢列島』では、タモリと明石家さんまが総合司会を務めました。

番組が成功したため翌1988年もさんまへ総合司会の依頼が行われましたが、さんまは「1回目を超えられない」という考えから辞退しています。

この出来事については、さんま本人が2014年の『TOKIOカケル』で改めて説明しています。

フジテレビ側がタモリへ「さんまもやる」という前提で話を進めてしまったため、後からさんまが断ったことを知ったタモリとの間で行き違いが起きたという、有名なエピソードです。

結果として1988年の総合司会はタモリと笑福亭鶴瓶になりました。

つまり、

「FNS長時間特番で、さんまが総合司会を依頼される→辞退する→別の人物が司会に入る」

という出来事そのものは実際に存在します。

ただし、これは1997年ではなく1988年です。

『HEY!HEY!HEY!』も「当初さんま案→ダウンタウン」だった

さらに1997年版の中心人物、水口昌彦にもよく似た実話があります。

『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』立ち上げ時にアシスタントプロデューサーだったきくち伸は、後年のインタビューで番組誕生の経緯を明かしています。

当時、スポーツ特番で明石家さんまと仕事をしていた水口が「さんまで音楽番組をやったら面白いのでは」と考えたものの、さんまのスケジュールなどが合わず、最終的にダウンタウンの司会で番組がスタートしたというものです。

『HEY!HEY!HEY!』第1回は1994年10月17日放送。放送ライブラリーの番組記録でも、プロデューサー・演出は水口昌彦、司会はダウンタウンと確認できます。

つまりこちらにも、

「水口昌彦+さんま案→調整がつかない→ダウンタウン」

という実話が存在します。

そして1997年には、その水口が27時間テレビを仕切っていた

さらに1997年の27時間テレビには、明石家さんま自身も出演しています。

7月27日には『さんまのオールスタースポーツするぞ!大放送』が27時間テレビ内で組まれ、デニス・ロッドマンを迎えた企画などが行われました。

『さんまのスポーツするぞ!大放送』にも水口昌彦は演出・プロデューサーとして関わっています。

つまり1997年には、

水口昌彦、明石家さんま、ダウンタウン、『HEY!HEY!HEY!』、27時間テレビが非常に近い場所で交差していました。

そこへ、

「1988年にさんまがFNS総合司会を辞退した」

「『HEY!HEY!HEY!』は当初さんま案だった」

「1997年の27時間テレビは直前まで二転三転していた」

という、それぞれ別々に確認できる事実があります。

後年、これらが混ざり合い、

「1997年もさんまが総合司会予定だったが、直前に降りてダウンタウンが代役になった」

という一つの物語として記憶されるようになった可能性は否定できません。

一方、本当に1997年の企画初期にさんまへの打診があった可能性も、現在の資料だけでは否定できません。

ここは「嘘だった」とも「事実だった」とも断定せず、未解決のまま残すのが最も正確だと考えます。

「テレビ誌にさんまと書いてあった」という記憶にも注意が必要

この説に関連して、「当時のテレビ誌で27時間テレビの司会が明石家さんまと書いてあるのを見た」という証言が語られることもあります。

ただし、ここにも注意点があります。

1997年7月27日の27時間テレビ内には、実際に『さんまのオールスタースポーツするぞ!大放送』が組み込まれていました。

そのためテレビ誌の番組表に、サブ企画として

「司会・明石家さんま」

と掲載されていたとしても、それが27時間テレビ全体の総合司会を意味するとは限りません。

誌面そのものを確認しないまま、「テレビ誌にさんまが司会と載っていた」という証言だけで総合司会予定説の証拠にすることはできません。

今後この説に完全な決着を付けるとすれば、1997年6月末から7月中旬に発売された『TVガイド』『週刊ザテレビジョン』『TV LIFE』『TVぴあ』などの初期告知を連続して確認する必要があります。

そこで放送の数週間前から「総合司会ダウンタウン」と掲載されていれば、「2週間前に急きょ交代」という説はかなり弱くなります。

逆に、初期号に明石家さんまが総合司会として明記されていれば、大きな新証拠になります。

1997年は「ダウンタウンが失敗した年」だけではない

1997年版を結果だけで見れば、厳しい数字でした。

平均視聴率は11.6%。ダウンタウン総合司会は一度きり。翌年には中居正広へ交代しています。

しかし、当時の状況を時系列で追うと、別の姿が見えてきます。

フジテレビは河田町からお台場へ移転したばかり。

『FNSの日』もBIG3中心の時代から大きく方向を変え、「REBORN」を掲げて新しい形を試そうとしていました。

ところが、本番前から番組体制は二転三転。

そのうえ放送開始直前に大型台風が上陸し、約3時間を予定していたプロ野球中継が消滅。屋外企画は変更され、機械も故障し、船を使った通し企画にも影響が出ました。

それでも26時間54分の生放送を続けた。

そう考えると、1997年版は「新体制がうまくいかなかった一回」というより、新しい27時間テレビを一気に作ろうとしたところへ、想定外の事態が連続した巨大な実験と見る方が実態に近そうです。

タイトルに付けられた「疾風怒濤」という言葉も、本来の意図とは別の意味で、この放送そのものを象徴する言葉になってしまいました。

まとめ|1997年の27時間テレビは、いくつもの偶然が重なった一度きりの「REBORN」だった

1997年の『FNSの日』は、お台場へ移転したフジテレビが「REBORN」を掲げ、ダウンタウンを総合司会に起用した大刷新の年でした。

ところが、放送4日後のナインティナインのラジオでは、番組が直前まで二転三転していたことが語られています。

さらに本番当日は台風9号が直撃。ナゴヤドームの中日-巨人戦が中止され、屋外企画も大幅変更。後年、制作側にいた高須光聖や三宅恵介が当時の厳しい状況を振り返っています。

平均視聴率11.6%で当時の最低となり、翌1998年には中居正広を総合司会とする別体制へ移行しました。

ただし、そこから「ダウンタウンが失敗したから一度きりになった」とまでは断定できません。

そして「本来は明石家さんまが総合司会だった」という説についても、番組体制が直前まで流動的だったことは確認できたものの、さんまからダウンタウンへ交代したことを示す直接資料は見つかっていません。

1988年のさんま総合司会辞退、『HEY!HEY!HEY!』の当初さんま案、1997年の直前混乱。よく似た複数の実話が存在しているため、記憶が混線した可能性もあります。

結局、1997年版を最も正確に表すなら、

「ダウンタウンの27時間テレビが失敗した年」ではなく、「新しい27時間テレビを作ろうとした矢先、企画段階から本番まで“疾風怒濤”になってしまった年」

なのかもしれません。

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