
『かくかくしかじか』1巻は、漫画家として成功した東村アキコが「昔から絵がうまくて、努力して夢をかなえた」という話ではありません。
むしろ最初に描かれるのは、自分はかなり絵がうまいと思い込んでいる高校3年生の林明子です。
少女漫画家になりたい。美大にも行きたい。そして、自分にはそれだけの実力があると思っている。
そこへ、竹刀を持った絵画教師・日高先生が現れます。
なぜ自伝漫画の第1巻を、「まだ何者でもないのに自信だけはある明子」から始めたのか。
この始まり方があるから、『かくかくしかじか』は成功した漫画家が過去を美しく整理する回想録ではなく、当時の自分が見えていなかったものまで描き直す作品になっています。
現在の東村アキコは、昔の自分をかなり容赦なく描く
自伝的な漫画では、過去の失敗や迷いも「今につながる大切な経験」として整えてしまうことがあります。
『かくかくしかじか』1巻は、その整理を急ぎません。
高校生の明子は、自分の絵にかなり自信があります。漫画家になる未来もどこか現実の延長として考えている。
現在の作者は、その自信を「若い頃は夢があった」ときれいに包まず、うぬぼれや見通しの甘さまでギャグにします。
だから読者は、完成した漫画家の成功談を読むのではなく、本人があとから見ればかなり恥ずかしい過去まで含めて、どう現在につながったのかを追うことになります。
日高先生は、明子の「自分はうまい」を最初に壊す
日高先生との出会いで、明子の自己評価はそのままでは通用しなくなります。
先生は褒めて自信を育てるタイプではありません。竹刀を持ち、容赦なく指摘し、とにかく描かせる。
現在の感覚で読めば、その指導方法に抵抗を感じる場面もあります。
ここを「本当は愛情のある理想の先生だった」と先回りしてまとめてしまうと、1巻の緊張感は薄くなります。
この段階の明子から見れば、日高先生はまず、自分の思っていた「絵がうまい」という基準を通用しなくする人物です。
その衝突を経て初めて、明子は「漫画家になりたい」という夢と、「実際に描き続けること」の間にある距離へ向き合い始めます。
「描け」という反復が、才能の話を作業の話へ変える
1巻で日高先生が明子に求めることは、かなり単純です。
描く。何枚も描く。うまくいかなければ、また描く。
この反復があるため、物語は「才能があるか、ないか」という話だけでは進みません。
明子本人は漫画家になる自分を想像していますが、日高先生が目の前へ置くのは未来の肩書きではなく、その日に描く一枚です。
夢を語る時間と、実際に手を動かす時間。その差が何度も描かれることで、明子の自信は単純に失われるのではなく、少しずつ別の形へ変わっていきます。
ギャグは、過去を軽くするためではなく「現在との距離」を作る
『かくかくしかじか』は、過去を振り返る作品なのにかなり笑えます。
明子の自信過剰、日高先生の極端な言動、画塾で起きる出来事。現在の作者は、当時なら笑えなかったかもしれない場面までテンポよく描きます。
この笑いによって、作者は過去の自分と少し距離を取れます。
「あの頃の私はこんなに未熟だった」と説明するのではなく、当時の自分の行動をそのまま見せ、現在の視点からツッコミを入れる。
読者も、若い明子と現在の語り手を同じ人物として見ながら、同時に別の視点として読めます。
これは日高先生だけの物語ではなく、「記憶を描き直す」漫画でもある
全5巻を知っていると、『かくかくしかじか』を「恩師との思い出の物語」とまとめたくなります。
もちろん日高先生は作品の中心人物です。
ただ、1巻ではまだ、先生との関係の意味が完成していません。
読者が見ているのは、現在の作者が過去の場面を選び直し、当時は理解できなかった相手や自分を漫画として並べ直していく過程です。
自伝だから事実を時系列に並べるのではなく、「今の自分から見て、あの頃の何を描く必要があるのか」で記憶が編集されている。
その意味で、1巻は美大受験の記録であると同時に、漫画家になった人が、自分が漫画家になる前の自分をどう語り直すかを読む巻でもあります。
日高先生の指導を、普遍的な教育論にはしない
日高先生の指導は強烈です。
だからといって、「厳しい先生ほど愛情がある」「本気で叱ってくれる大人は貴重だ」という一般論へ広げる必要はありません。
作品が描いているのは、あくまで明子と日高先生という特定の二人です。
その指導が誰にでも適切だったのか、同じ方法を他の生徒にも勧められるのかは別の話です。
1巻で重要なのは、日高先生の方法を正当化することではなく、明子の自己認識を大きく揺らす人物として、彼がどれほど強く入り込んできたかを見ることでしょう。
弱点|先生の強烈さが合わないと、序盤でかなり引っかかる
1巻は、日高先生の強烈な言動をかなりコミカルに描きます。
そのテンポが作品の面白さでもありますが、指導方法そのものに強い抵抗を感じる人はいるはずです。
また、自伝的作品なので「この出来事が後でどういう意味を持つか」を現在の語り手が知っている。そのため、完全に先の分からない青春漫画とは読み味が違います。
1巻だけでは、明子と日高先生の9年間全体の意味もまだ見えません。後の関係を知っている読者ほど感情を先回りさせやすいので、まずは高校3年生の明子が何を考えていたのかに留まって読む方が、この巻の形は見えやすくなります。
全5巻で完結。2025年には実写映画化
原作『かくかくしかじか』は全5巻で完結しています。
2025年5月16日には実写映画が公開され、林明子を永野芽郁さん、日高健三を大泉洋さんが演じました。監督は関和亮さん、脚本には原作者の東村アキコさん自身も参加しています。
映画から作品を知った場合でも、原作1巻では現在の作者が過去の自分へ入れるツッコミや、ページ単位で切り替わる回想の速度をそのまま読めます。
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まとめ|1巻は「成功した漫画家の原点」ではなく、思い込みが崩れるところから始まる
『かくかくしかじか』1巻の林明子は、自分には絵の才能があり、漫画家になる未来もある程度見えていると思っています。
そこへ日高先生が現れ、その自己評価を容赦なく崩していく。
でも、この巻の価値は「厳しい先生に鍛えられて成功した」という単純な教訓にはありません。
現在の東村アキコが、当時の自分のうぬぼれ、逃げ、努力、先生への反発を、笑いながらも削らず描き直していること。
だから1巻は、漫画家としての成功を知っていても読めます。結果ではなく、「まだ結果を知らない自分が何を見えていなかったのか」が物語になっているからです。
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自分は絵がうまいと思っていた高校3年生・林明子が、竹刀を持った絵画教師・日高先生と出会う第1巻。
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書誌情報
- 作品:『かくかくしかじか』1巻
- 著者:東村アキコ
- 出版社:集英社
- レーベル:愛蔵版コミックス
- 発売日:2012年7月25日
- 判型:A5判
- ページ数:154ページ
- 定価:817円(税込)
- ISBN:9784087824575
書誌・作品概要は集英社公式、映画情報は映画『かくかくしかじか』公式および集英社公式情報を基準に確認しています。