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「失敗したソフト自販機」はどうJOYSOUNDにつながった?TAKERUから通信カラオケへ続く技術史

目次
  1. ソフトベンダーTAKERUとは?JOYSOUNDへつながった「ソフト自販機」の技術史
  2. TAKERUとは何だったのか
  3. 実は「買うたび中央から全部ダウンロード」でもなかった
  4. なぜ1986年に「ソフト自販機」が必要だったのか
  5. 2,400bit/sの時代にソフトを通信する
  6. 1986年のTAKERUを「ISDN」と書くと時系列が合わない
  7. TAKERUは11年間で3世代へ進化した
  8. TAKERUではゲーム以外も売っていた
  9. それでもTAKERUは「事業として成功しなかった」
  10. TAKERUは任天堂とも一度つながりかけていた
  11. 「TAKERU撤退後にJOYSOUNDを作った」では時系列が合わない
  12. 次は何を送る?教材、経典、そして音楽
  13. TAKERUで売ったMIDIがJOYSOUNDへの橋になった
  14. 技術だけでは足りない。「権利」も通信事業を左右した
  15. 最大の見せ場――全国のTAKERUが通信カラオケ網へ使われた
  16. ソフトを送るか、曲を送るか――二つの仕組みを比べる
  17. 1992年、JOYSOUND「JS-1」が登場
  18. ところが、最初のJOYSOUNDも売れなかった
  19. 約3カ月後、2,000曲を追加――JS-2は「戦う場所」を変えた
  20. JOYSOUNDが「世界初の通信カラオケ」だったとは断定できない
  21. なぜ「ミシンのブラザー」がカラオケを作ったのか
  22. 1997年2月末、TAKERUはサービスを終えた
  23. TAKERUは消えた。でもゲームとの縁まで消えなかった
  24. 2026年現在、JOYSOUNDを展開するのはエクシング
  25. 「失敗した技術」は、本当に失敗だったのか
  26. 主な確認資料

ソフトベンダーTAKERUとは?JOYSOUNDへつながった「ソフト自販機」の技術史

1980年代のソフト自動販売機TAKERUから通信カラオケJOYSOUNDへデータ配信の仕組みがつながるイメージ

カラオケ店で新しい曲を検索する。

リモコンから予約すれば、少し待つだけで伴奏が始まる。店員が新曲のディスクを倉庫から持ってきたり、機械へ一枚ずつ追加したりする必要はない。

曲は「データ」として端末へ届く。

今では当たり前になったこの仕組みをJOYSOUND側からさかのぼっていくと、1986年のパソコンショップに置かれた一台の巨大な機械へ行き着く。

「ソフトベンダーTAKERU」

画面でパソコンソフトを選び、お金を払う。すると空のフロッピーディスクが機械から出てきて、その場でソフトが書き込まれる。説明書まで内蔵プリンターから印刷された。

ブラザー工業が現在、「世界初のパソコンソフト自動販売機」と位置付けているシステムだ。

最盛期には全国約300台まで設置された。しかしブラザー自身の評価は、「事業としては成功しなかった」。

普通なら、ここで「少し早すぎた珍しい自販機」の話として終わる。

ところがTAKERUの歴史は、その後の方が面白い。

TAKERUで培った通信コンテンツ流通の仕組みを使い、パソコンソフトではなく音楽データを全国へ届けることを考える。

その先で生まれたのが、1992年に登場した通信カラオケ「JOYSOUND」だった。

しかも、単に発想だけを参考にしたわけではない。後世の技術史資料を追うと、全国に存在したTAKERUの拠点が、初期の通信カラオケネットワークでも活用されていたことが分かる。

ただし、「TAKERUが失敗したからJOYSOUNDが成功した」という簡単な美談でもない。

TAKERUは苦戦した。

最初のJOYSOUNDも苦戦した。

それでも「コンテンツを箱ではなくデータとして持ち、通信で全国へ届ける」という仕組みは捨てられなかった。

パソコンソフトの自販機とカラオケ。この一見まったく違う二つの事業は、どこでつながったのだろうか。

TAKERUとは何だったのか

ソフトベンダーTAKERUは、ブラザー工業が開発したパソコンソフト販売システムだ。

現在のブラザー公式資料では1986年に登場し、1997年までサービスを継続。最盛期には全国約300台がパソコン専門店などへ設置されたと説明されている。

当初は「武尊」と漢字で表記されていた。

扱った商品の中心はパソコンソフトで、ゲームだけではなく追加データなども存在した。

現在ならSteamや各ゲーム機のオンラインストアからデータを購入すること自体は珍しくない。

しかし1986年は、一般家庭がインターネットへ常時接続する時代よりずっと前だ。

TAKERUはインターネット通販ではない。

店舗へ設置された大型端末、電話系の通信網、端末内のストレージ、フロッピーディスクを組み合わせて、ソフトを「箱」ではなく「データ」として流通させようとしていた。

ソフトを選ぶと、空のフロッピーが出てきた

TAKERUの購入方法は、現在から見るとかなり変わっている。

利用者は店頭のTAKERUで欲しい商品を選び、料金を支払う。

すると本体から、まだデータの入っていないフロッピーディスクが出てくる。

そのディスクを利用者自身がTAKERUのドライブへ挿入すると、購入したソフトが書き込まれる。

さらに本体にはプリンターも搭載されており、説明書もその場で印刷された。

完成した箱入り商品を自販機から取り出すのではない。注文を受けた後、その場で商品を作る。

この発想がTAKERUの核心だった。

自分のフロッピーを持参する「書き換え機」ではなかった

TAKERUを、利用者が持ってきたフロッピーへソフトを書き込む装置と説明されることもある。

少なくともブラザーが現在公開している購入手順では違う。

料金を支払うと、機械側から空のディスクが供給される。

その意味では、既存のディスクカードを書き換える任天堂のディスクライターとも仕組みが異なる。

同じ1986年、日本のゲーム売り場ではファミコン ディスクシステムによる「店へ行ってゲームを書き換える」という文化も始まっていた。ディスクシステム側の仕組みや当時の店頭文化については、つぶログのディスクシステムとは何だったのか|書き換え文化と店頭の熱で読み解く1980年代ファミコン史でも詳しく追っている。

実は「買うたび中央から全部ダウンロード」でもなかった

TAKERUを現代のオンラインストアと同じ感覚で考えると、もう一つ誤解しやすい。

購入するたびに、ブラザー側の中央システムからゲーム一本分を最初から通信で取り寄せていたわけではない。

ブラザー公式によると、多くのソフトデータはTAKERU本体のハードディスクへ保存されていた。

購入されたソフトが端末内にあれば、そのデータをフロッピーディスクへ書き込む。

端末側にない商品が必要になった場合には、通信を使ってデータを取得する。

場面TAKERUで行われていたこと
通常時多数のソフトを端末内HDDへ保存
購入時端末内データからフロッピーへ書き込み
端末内にない商品通信によって必要なデータを取得
ラインアップ更新通信網を使い端末側のコンテンツを更新

現在のゲーム機なら、ユーザー自身がストアへアクセスして欲しい商品を直接ダウンロードする。

TAKERUは店舗端末側へ商品を蓄えておき、必要な場合に通信で補う。

似ているのは「パッケージ在庫をデータへ置き換える」という考え方であって、通信構造そのものは現代のダウンロード販売とは違う。

現在のDL版ゲームでも、「販売終了」「再ダウンロード終了」「ストア終了」はそれぞれ別の問題になる。現代のデジタル販売については、つぶログのDL版ゲームは販売終了後も遊べる?再ダウンロード・ストア終了・本体故障で何が変わるかで整理している。

なぜ1986年に「ソフト自販機」が必要だったのか

TAKERUが生まれた理由を理解するには、1980年代のパソコン売り場を見る必要がある。

当時はNECのPC-8801やPC-9801、シャープのX1、後のX68000、富士通系、MSXなど、互換性のないパソコン規格が並んでいた。

同じタイトルでも、対応機種が違えば別の商品になる。

しかも当時のパソコンソフトは、大きな箱で販売されるものも多かった。

任天堂の「社長が訊く」でTAKERUに関わった中谷氏は、ソフトの箱が棚を占領し、商品が3~4カ月ほどという短いサイクルで入れ替わるため、店舗経営が難しかったと振り返っている。

売れる商品を多く仕入れれば、売り切れたときに機会損失が起きる。

売れない商品を仕入れれば、その箱が在庫として残る。

機種が増えれば、同じ作品でも複数の在庫を持たなければならない。

そこで、

店に箱を置くのではなく、データを置けばいい。

という発想が出てくる。

TAKERUは変わった自販機である前に、小売店の在庫問題を通信とストレージで解決しようとした流通システムだった。

2,400bit/sの時代にソフトを通信する

「1986年にゲームを通信で送る」と聞くと、現在の感覚では通信速度が気になる。

当時TAKERUに関わった中谷氏は、開発期に扱っていたFAXモデムについて、1秒間に2,400bit程度だったと説明している。

これは「TAKERUの全機種が常に2,400bit/sで動いていた」という公式仕様値ではない。

あくまで当時利用できた通信技術の水準を示した当事者証言として見るべき数字だ。

それでも、その遅さは現在と比較すると分かりやすい。

仮に2,400bit/sをずっと維持し、通信制御や再送などを一切無視した理論値なら、次の時間がかかる。

データ量理論上の最短時間
1KiB約3.4秒
100KiB約5分41秒
1MiB約58分15秒

実際の通信なら制御情報、エラー訂正、再送なども入るため、単純計算通りにはならない。

だからこそ、TAKERUが端末内HDDへ商品をあらかじめ蓄える方式を組み合わせていたことには意味がある。

「1MBのゲームを買うたび1時間待った」という話ではない。

モデム数万円、10MBのHDDが数十万円

事業上さらに重かったのが機器の値段だ。

中谷氏は当時について、モデム1台が数万円、10MB程度のハードディスクが数十万円したと振り返っている。

全国に端末を置けば、その台数分の通信機器とストレージが必要になる。

さらに通信ネットワークの維持費、保守費用も発生する。

TAKERUが苦戦した理由を「時代を先取りしすぎたから」と片付けると、こうした具体的なコストが見えなくなる。

1986年のTAKERUを「ISDN」と書くと時系列が合わない

TAKERUについて調べると、現在のブラザーミュージアムには「ISDN回線を利用してパソコンソフトをフロッピーディスクにダウンロード」とする説明がある。

ところが、この説明を1986年の初期TAKERUへそのまま適用すると問題が起きる。

NTT東日本の通信史によれば、「INSネット64」の商用サービスが東京・名古屋・大阪で開始されたのは1988年4月19日

TAKERU登場より約2年後である。

したがって、

「TAKERUは1986年からISDNでソフトを配信していた」

とは書けない。

TAKERUは約11年間の中で機種更新を重ね、通信環境も変化している。

現在のミュージアム説明は、後期まで含めたTAKERUシステム全体をまとめて説明した結果と考えれば矛盾しないが、公開資料から「何年何月にISDNへ移行した」ところまでは確定できない。

本稿では初期からISDNだったとは扱わない。

TAKERUは11年間で3世代へ進化した

現在のブラザー公式は、TAKERUを3世代に整理している。

世代型番ブラザー公式で示される筐体色
初代SV-2000
2代目SV-2100
3代目SV-2300

一方、当時の『TAKERU PRESS』には赤い筐体を「初代武尊」とする表現も残っており、現在の製品史上の分類と、当時利用者向けに使われていた呼び方が完全には一致しない。

型番の整理については、現在のブラザー公式を基準とするのが安全だ。

TAKERUではゲーム以外も売っていた

販売商品の中心はゲームだったが、TAKERUは市販パッケージの代替だけを目指したものでもなかった。

データ販売だからこそ扱いやすい、小規模な商品も存在した。

ブラザー公式では、TAKERU専売作品として知られる『マデリーン』や、日本ファルコム『ソーサリアン』の追加シナリオ「セレクテッドソーサリアン」、各種『大戦略』用マップなどが紹介されている。

パッケージを製造し、全国の店へ箱を配送するほどの販売規模を見込めない商品でも、データなら棚を占領しない。

そして後の歴史に直結する商品もあった。

MIDIの楽曲データである。

専用フリーペーパー「TAKERU PRESS」もあった

ブラザーは「TAKERU PRESS」という利用者向けフリーペーパーも発行していた。

新作情報やTAKERU専売作品を紹介する媒体で、最終号にはTAKERUの営業終了も告知されている。

TAKERUは一台の珍しい機械だけではなかった。

専売作品があり、追加コンテンツがあり、情報誌まであった。

商業的な成否とは別に、独自のソフト流通文化が約11年間存在していたことは見落とせない。

それでもTAKERUは「事業として成功しなかった」

ブラザー自身はTAKERUについて、全国約300台まで設置されたものの「事業としては成功しませんでした」と説明している。

当事者証言でも、端末コスト、ネットワークコスト、PCやMSX向けソフト市場の規模などが重かったとされる。

約300台という数字だけを見ると、全国展開には成功したようにも見える。

しかし一台ごとに当時高価だったストレージと通信機能を積み、ネットワークを維持し、複数規格に分かれたパソコンソフトをそろえなければならない。

TAKERUは「誰にも使われなかった失敗作」ではない。

一方で、ブラザーが期待した規模の利益を生み続ける事業にもならなかった。

その二つを分けて考える必要がある。

TAKERUは任天堂とも一度つながりかけていた

TAKERUの歴史には、任天堂との意外な接点もある。

任天堂がファミコン ディスクシステムを準備していたころ、ブラザーグループ側は任天堂本社を訪れ、ファミコンソフトの流通に関する業務提携を相談した。

これは後年、TAKERU関係者自身が任天堂の公式インタビューで証言している。

ただし提携は成立しなかった。

ここから「TAKERUでファミコンゲームを正式販売する予定だった」「採用寸前だった」とまでは言えない。

確認できるのは、TAKERU側の通信・流通事業と、任天堂のディスクシステム事業が一度接点を持ったことまでだ。

ディスクシステムでは、店頭に置かれたディスクライターを利用してゲームを書き換える文化が実際に展開された。その仕組みや当時の空気については、つぶログのディスクシステム文化史もあわせて読むと、1986年前後に「店頭でソフトを生成・書き換える」という発想が複数の場所で動いていたことが分かりやすい。

「TAKERU撤退後にJOYSOUNDを作った」では時系列が合わない

TAKERUからJOYSOUNDへの流れを説明するとき、もう一つ整理しておきたい言葉がある。

「撤退」と「サービス終了」は同じではない。

後年の任天堂インタビューでは、「TAKERU撤退後」に次の通信コンテンツを探したという流れで語られている。

ところがTAKERUサービスの終了は1997年。

JOYSOUNDの初号機JS-1は1992年に発売されている。

文字通り「TAKERUが1997年に終了して、その後JOYSOUNDの開発を始めた」のであれば時系列が成立しない。

実際には、TAKERU事業の拡大を断念して次の事業へ人材や技術を振り向ける動きと、既存TAKERUサービスの営業継続が並行していた。

JOYSOUND開発者・安友雄一氏の後年の回顧では、通信カラオケの開発は1989年ごろから本格化したとされる。

時期確認できる流れ
1986年TAKERU登場
1980年代後半採算・事業拡大に苦戦し、次の通信コンテンツを模索
1989年ごろ開発者の回顧では通信カラオケ開発が本格化
1992年5月6日株式会社エクシング設立
1992年10月JOYSOUND「JS-1」発売
1993年「JS-2」発売
1997年2月末TAKERUサービス終了

TAKERUを停止してからJOYSOUNDへ移ったのではない。

TAKERUが動いている間に、次の通信ビジネスが始まっていた。

次は何を送る?教材、経典、そして音楽

TAKERUを通じて、ブラザー側には通信コンテンツ事業の経験が残った。

しかし問題があった。

次は何を通信で送れば事業になるのか。

中谷氏は後年、教育機関向けの教材や仏教の経典まで検討したと語っている。

これらが正式サービスとして展開されたという話ではない。

次の通信ビジネス候補として検討された段階の話だ。

そこで障害になったものの一つが権利だった。

通信装置が完成していても、合法的・継続的に大量のコンテンツを配信できなければ事業は成り立たない。

最終的に注目されたのが音楽だった。

TAKERUで売ったMIDIがJOYSOUNDへの橋になった

TAKERUではMIDIの楽曲データも販売していた。

さらに安友氏の後年の企業インタビューでは、ある音楽学校から約3,000曲のMIDIデータをTAKERUで販売できないかと相談され、実際に扱ったというエピソードが語られている。

大きく売れたわけではなかった。

しかし別の用途が見えてきた。

これだけ小さな音楽データを通信で送れるなら、カラオケの伴奏にも使えるのではないか。

ここでTAKERUと通信カラオケがつながる。

MIDIは「音声を圧縮したもの」ではない

MIDIを音声圧縮技術と考えると、通信カラオケの仕組みを誤解する。

MIDIは録音済みの歌声や楽器音そのものを小さくする方式ではない。

大まかには、

  • どの音程を鳴らすか
  • いつ鳴らすか
  • どれくらいの長さで鳴らすか
  • どの程度の強さで鳴らすか
  • どの音色を使うか

といった演奏情報を持ち、受信した機械側の音源に演奏させる。

録音した高音質音声そのものを送るより必要なデータ量を大幅に小さくできる。

通信速度もストレージ容量も限られていた1990年代初頭には、この違いが大きかった。

初期の通信カラオケで、原曲そのものとは違う電子音源特有の伴奏が聞こえたのも、端末側の音源で演奏する構造によるところが大きい。

技術だけでは足りない。「権利」も通信事業を左右した

通信カラオケは、MIDIなら小さく送れるという技術だけで成立したわけではない。

全国の店舗へ何千曲、何万曲と配信するなら、それらを継続して利用できる権利処理も必要になる。

当時の関係者は、自分たちで伴奏データを制作しながら、必要な許諾を整えていった過程を振り返っている。

ただし、その回顧を2026年現在の著作権制度へそのまま当てはめることはできない。

現在JASRACは、業務用通信カラオケについて、楽曲データをカラオケ端末へ送信・複製する事業者側の利用と、店舗で客が歌唱する利用を分けて整理している。

「データなら全国へ送れる」というだけでは足りない。

大量のコンテンツを合法的に取り扱える仕組みまで作る必要があった。

これは古いゲームを現在復刻する場合にも似た問題が起きる。版権や音楽、元データの所在が再発売を難しくする理由については、つぶログの昔のゲームはなぜ復刻されない?版権・音楽・元データが再発売を難しくする理由で詳しく整理している。

最大の見せ場――全国のTAKERUが通信カラオケ網へ使われた

TAKERUとJOYSOUNDを「どちらも通信を使っていた」で終わらせると、この歴史の最も面白い部分を落としてしまう。

公益社団法人発明協会の「戦後日本のイノベーション100選」にまとめられた通信カラオケの技術史では、全国約300カ所に存在したTAKERUの設備を、通信カラオケ用のホストコンピューターとして転用した経緯が紹介されている。

初期のネットワークは、おおむね次のような階層構造だった。

本社側のコンピューター

全国約300カ所のTAKERU由来ホスト

電話回線

各カラオケ店舗の端末

技術史資料では、本社と各ホストが1日1回データを同期し、店舗側のカラオケ端末もホストと定期的に同期する仕組みだったとされる。

すべてのカラオケ店を本社へ高価な専用線で直接つなぐのではない。

TAKERUによってすでに作られていた全国拠点を中継点として利用する。

つまりTAKERUからJOYSOUNDへ受け継がれたのは、抽象的な「チャレンジ精神」ではない。

通信コンテンツを全国へ配るために作ったネットワーク資産そのものまで利用された。

ソフトを送るか、曲を送るか――二つの仕組みを比べる

TAKERU初期JOYSOUND
主なコンテンツパソコンソフトMIDI伴奏・歌詞などの楽曲データ
通信先パソコンショップのTAKERU全国のカラオケ端末
端末側HDDへソフトを保持楽曲データを蓄積
客が受け取るもの書き込まれたフロッピーディスク端末の音源で再生されるカラオケ伴奏
共通する考え方コンテンツを物理在庫ではなくデータとして蓄え、通信で全国の端末へ更新する

TAKERUでは、この仕組みが高価な端末、通信費、市場規模という壁にぶつかった。

ところがカラオケでは事情が変わる。

新曲は次々に増える。

全国の店舗を更新したい。

曲数は多いほど選択肢になる。

物理ディスクを全国へ配送し続けるのは大きな負担になる。

TAKERUで弱点だった「データで商品を増やせる」という特徴が、別市場では強みに変わり始める。

1992年、JOYSOUND「JS-1」が登場

通信カラオケ事業を担う株式会社エクシングは、ブラザー工業、インテック、ブラザー販売によって1992年に設立された。

現在の会社概要では設立日は1992年5月6日

同年10月、通信カラオケ「JS-1」が発売された。

搭載曲数は約3,100曲。

従来のレーザーディスク式などと大きく違うのは、新しい曲を物理メディアとして全国の店へ配送するのではなく、データとして追加できることだった。

ブラザーの後年資料では、ヒット曲が発売されてから1~2週間ほどで歌える点も支持されたと説明されている。

「通信だから発売当日に瞬時に追加できた」という意味ではない。

MIDI伴奏を制作し、歌詞データを整え、権利処理を行う工程は必要だった。

それでも、ディスクを製造して全国へ運ぶ方式と比べれば、新曲投入の仕組みそのものを大きく変えられた。

ところが、最初のJOYSOUNDも売れなかった

ここで「TAKERUの経験を生かしたJOYSOUNDが大成功した」と話を急ぐと、歴史をきれいにしすぎてしまう。

中谷氏はJS-1について、後年「最初はまったく売れませんでした」と振り返っている。

約3,100曲あっても、当時カラオケで重要だった定番曲の一部を十分そろえられなかった。

曲数の総数が同じでも、客が歌いたい一曲がなければ意味がない。

技術は動いた。

通信もできた。

しかし市場には合わなかった。

TAKERUと同じように、JOYSOUNDもここで一度壁にぶつかった。

約3カ月後、2,000曲を追加――JS-2は「戦う場所」を変えた

そこで開発側は、既存のカラオケ会社と同じ土俵で戦うことをやめた。

定番曲の網羅で追いつけないなら、従来型の機械では収録しにくい曲を大量に入れる。

シングル曲だけでなく、アルバム収録曲なども積極的に追加した。

JS-1の約3,100曲に約2,000曲を加え、1993年のJS-2では約5,000曲規模まで拡大した。

任天堂のインタビューでは、この転換をJS-1登場から約3カ月後の動きとして語っている。

狙ったのは、若い利用者が多かったカラオケボックス市場だ。

「こんな曲まで入っている」という選択肢の多さそのものが価値になる。

ここで通信方式が効いた。

従来のレーザーディスク式で数千曲を増やそうとすれば、その分の物理ディスクと収納・チェンジャーが必要になる。

通信カラオケなら、端末のストレージへデータを増やせる。

TAKERUでは十分な事業規模に届かなかった「商品をデータとして増やす」という性質が、カラオケでは競争力になった。

JOYSOUNDが「世界初の通信カラオケ」だったとは断定できない

TAKERUとJOYSOUNDの歴史には、「世界初」「業界初」という表現が多く登場する。

ここは慎重に扱いたい。

ブラザーの現在の企業史では、JOYSOUNDを「業界初のISDN回線を利用した通信カラオケシステム」と紹介している。

一方、タイトー公式の企業史では、ISDNを使う通信カラオケ「X2000」を1992年9月に製造・販売開始したとしている。

JOYSOUND JS-1は同年10月だ。

第三者の技術史資料でも、通信カラオケ市場への参入はタイトーが先、エクシングが続いたと整理されている。

そのため本稿では、

「JOYSOUNDが通信カラオケそのものを世界で初めて発明した」

とは扱わない。

1992年前後、複数社がほぼ同じ時代に「曲を通信で届ける」市場へ踏み込み、その有力サービスの一つとしてJOYSOUNDが成長していった、と見る方が資料との整合性が高い。

なぜ「ミシンのブラザー」がカラオケを作ったのか

現在のイメージだけを見ると、ブラザー工業とカラオケは少し離れている。

しかしブラザーは、ミシンだけを作っていた企業ではない。

タイプライター、プリンター、FAXなど、文字や情報を扱う機器へ事業を広げてきた。

TAKERUを見ると、それらの技術が一つの箱へ集まっている。

画面がある。

通信する。

ハードディスクへデータを保存する。

フロッピーへ書き込む。

説明書を印刷する。

通信カラオケは、ミシンメーカーが突然音楽ビジネスを思いついたという話ではない。

情報機器と通信コンテンツ事業へ広がっていたブラザーの技術の延長線上にあった。

1997年2月末、TAKERUはサービスを終えた

JOYSOUNDが始まった後もTAKERUは営業を続けた。

最終的なサービス終了は1997年2月末

約11年間の運用だった。

そのころパソコン市場では大きな変化が起きていた。

ブラザー公式は、16ビットから32ビットへの移行、ソフト媒体のフロッピーディスクからCD-ROMへの変化、インターネットの普及などをTAKERU末期の環境変化として挙げている。

ゲームやソフトの容量が大きくなれば、フロッピーへ書き込む販売形態は苦しくなる。

CD-ROMならはるかに大容量を扱える。

家庭から通信サービスへ直接アクセスする時代も近づいていた。

TAKERUは短期間で消えた試作品ではない。

3世代へ改良され、約300台へ広がり、独自作品と情報誌を生み、11年にわたって営業した。

そのうえで、ブラザーが期待した規模の事業にはならなかった。

TAKERUは消えた。でもゲームとの縁まで消えなかった

TAKERUと任天堂の業務提携は1980年代には実現しなかった。

しかし、TAKERUから続いたJOYSOUNDは、後年ふたたび家庭用ゲーム機と接点を持つ。

2008年には『カラオケJOYSOUND Wii』。

その後Wii UでもJOYSOUNDが展開され、2017年にはNintendo Switch向けサービスも始まった。

もちろん、1980年代に構想された提携がそのまま数十年越しに実現したわけではない。

事業も会社も技術も別の段階へ進んでいる。

それでも、パソコンショップでゲームソフトを通信販売していたTAKERUの系譜が、後にゲーム機上のカラオケサービスとして任天堂ハードへ入ったという流れは興味深い。

2026年現在、JOYSOUNDを展開するのはエクシング

現在の会社関係も整理しておこう。

JOYSOUNDを展開しているのは株式会社エクシングだ。

2026年4月1日、U-NEXT HOLDINGSはエクシング株式の70%を取得し、同社を連結子会社化した。

そのため2026年9月現在、JOYSOUNDを「ブラザー工業が直接運営しているサービス」と説明するのは正確ではない。

現在はエクシングがJOYSOUNDブランドを展開し、エクシングはU-NEXT HOLDINGSグループに入っている。

ただし、その企業史と技術史をさかのぼればブラザーのTAKERUへ到達する。

「失敗した技術」は、本当に失敗だったのか

TAKERUを振り返るとき、「時代を先取りしすぎた」という言葉は便利だ。

しかし、それだけではなぜ商売が難しかったのかを説明できない。

ストレージが高かった。

通信機器も高かった。

ネットワーク維持費もかかった。

パソコン市場は複数の互換性のない規格に分かれていた。

全国約300拠点を維持しても、事業全体を十分な規模へ伸ばせなかった。

一方、JOYSOUNDへ移ってからも、最初のJS-1は売れなかった。

通信で曲を送れるだけでは足りなかった。

そこで曲数を増やした。

ターゲットを変えた。

物理ディスクでは増やしにくいアルバム曲まで投入した。

通信という仕組みが、市場の困りごとと噛み合う場所を探し直した。

TAKERUが残したものを一言で表すなら、

「商品を箱として全国へ運ぶのではなく、データとして全国の端末へ届ける」

という考え方だった。

パソコンソフトでは、その仕組みを支えるコストと市場規模が合わなかった。

ところが送るものをMIDI楽曲へ変えると、事情が変わった。

新曲を頻繁に追加したい。

全国の店舗を更新したい。

物理ディスクを何千枚も抱えたくない。

利用者には、できるだけ多くの曲を選ばせたい。

通信カラオケが抱えていた課題と、TAKERUで培った技術や運用経験が重なった。

しかも初期には、約300カ所のTAKERU由来拠点までネットワークへ生かされた。

1986年のパソコンショップに置かれたソフト自販機と、現在のカラオケ店。

見た目も、客も、売っているものも違う。

それでも、その奥には一本の線がある。

コンテンツをデータにして、必要な場所へ通信で届ける。

TAKERUというサービスは1997年に終わった。

しかし、そこで試した仕組みまで消えたわけではなかった。

売るコンテンツを変え、届ける場所を変え、市場を変えた先で、別の事業として生き残った。

「失敗したから成功した」のではない。

一度作った技術とネットワークを、もっと相性のいい用途へ作り直した。

TAKERUからJOYSOUNDへ続く歴史の面白さは、そこにある。

主な確認資料

※ブラザー公式ではTAKERUを「世界初のパソコンソフト自動販売機」、JOYSOUNDを「業界初のISDN回線を利用した通信カラオケシステム」と位置付けています。本稿では強い「世界初・業界初」表現について他の一次資料・技術史資料とも照合し、独立して確認できないものは企業側の位置付けとして扱っています。また、現在のブラザーミュージアムにはTAKERUをISDN利用とする説明がありますが、NTTのINSネット64商用開始は1988年4月19日であるため、1986年の初期TAKERUからISDNを使用していたとは記載していません。

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