- 東京湾の「明治の海上要塞」はなぜ今も残る?撤去された第三海堡、守られる第二海堡
- 第二海堡とは?水深8~12mの海から造った人工島
- 本当に「海に浮かぶ砲台」だった
- 1923年の関東大震災で、三つの海堡の運命が分かれた
- 砲台を失ったあとも、第二海堡の軍事利用は続いた
- 戦後、米軍による爆破と波浪で島はさらに傷んだ
- 第三海堡は「残っていること」が危険になった
- 第三海堡は「あると危険」、第二海堡は「崩れると危険」
- 第二海堡が崩れると、約100m先の航路へ土砂が流れる
- 大地震の直後ほど、航路を塞がせるわけにはいかない
- 明治の石を、現代の鋼管で外側から支えた
- 大規模な護岸整備は2025年3月に完了した
- 第二海堡は「保存されているだけの島」でもない
- 「船を止める島」から「船を安全に通すための島」へ
- 一般人は第二海堡へ上陸できる?
- 第一海堡はどうなった?
- 第二海堡は、歴史遺産だから残っているだけではない
- 第二海堡とは何ですか?
- 第二海堡は2026年現在も残っていますか?
- なぜ第二海堡を撤去しないのですか?
- 第三海堡はなぜ撤去されたのですか?
- 第二海堡は現在何に使われていますか?
- 一般人も第二海堡へ行けますか?
- まとめ|大砲を置いた島は、「崩れないこと」で東京湾を守るようになった
東京湾の「明治の海上要塞」はなぜ今も残る?撤去された第三海堡、守られる第二海堡

東京湾のほぼ中央、千葉県の富津岬から沖へ進んだ海上に、一つの人工島があります。
島には古い砲台や兵舎の跡、煉瓦やコンクリートの構造物が残り、その一方では灯台や現代の設備も使われています。
名前は第二海堡(だいにかいほう)。
自然にできた島ではありません。明治時代、日本が首都防衛のために海の中から造った人工島型の要塞です。
工事が始まったのは1889年。人工島部分が完成するまで約10年、その後も砲台などの上部構造が整備され、全体が竣工したのは1914年でした。着工から完成まで、実に25年を要しています。
それほどの時間と労力をかけて造られた目的は、東京湾へ侵入する敵艦を大砲で迎え撃ち、首都東京や横須賀軍港を守ることでした。
もちろん、2026年現在の第二海堡にその役割はありません。
関東大震災で大きな被害を受け、戦後には米軍によって島内施設を爆破され、その後も波や台風による浸食が続きました。それなのに第二海堡は撤去されず、現在まで残されています。しかも、ただ残っているだけではなく、国が現在も維持管理しています。
歴史的に貴重だから保存されている――そう考えたくなります。
ところが、第二海堡のすぐ近くには浦賀水道航路があり、島と航路が最も接近する場所は約100メートルしかありません。
もし大規模地震などで第二海堡が崩れ、大量の石や土砂が海へ流れ出せば、それが航路へ入り込み、船舶の航行を妨げるおそれがあります。
つまり第二海堡は、
「昔の要塞だから壊せない」のではなく、「崩れると現代の航路を塞ぐおそれがあるから、崩れないよう管理する必要がある」
のです。
しかも、東京湾に造られた海堡は第二海堡だけではありませんでした。
かつては第一・第二・第三の三つがあり、そのうち第三海堡は国によって撤去されています。
同じ明治の海上要塞なのに、なぜ一方は壊し、一方は補強したのでしょうか。
この違いを追うと、第二海堡が100年以上を経て現在まで残る理由が見えてきます。
第二海堡とは?水深8~12mの海から造った人工島
「海堡」という言葉自体、普段の生活ではほとんど聞きません。
簡単に言えば、海上に人工島を造り、そこへ大砲を配置した要塞です。
明治政府は、外国艦隊が東京湾へ侵入する事態に備え、東京湾口に砲台群を整備しました。国土交通省によると、首都東京と横須賀軍港を守るため24の砲台が築かれ、その中で観音崎、富津岬、猿島を結ぶ防御線をさらに強化するため、第一・第二・第三海堡が海中に造られました。

第二海堡の建設場所は、第一海堡から西へ2577メートル。
海底までの水深は約8~12メートルありました。
そこへ投入された石材は48万5968立方メートル、砂は29万9243立方メートル。公式資料に記録された人夫数は49万5855人で、工事規模を示す数字としては延べ約50万人規模と考えるのが分かりやすいでしょう。満潮面付近での基礎上部面積は約4万1000平方メートルでした。
1889年7月に工事が始まり、人工島そのものは1899年に完成します。
そして1900年から砲台などの上部構造の建設が本格化し、第二海堡全体としての竣工は1914年6月でした。
そのため、「海を埋め立てるだけで25年かかった」という説明は正確ではありません。
海中に人工島を築き、その上へ要塞施設を完成させるまで約25年かかったというのが実際の流れです。
現在なら大型作業船や測位技術を使うような海中工事を、明治時代の技術で進めていったこと自体、第二海堡の大きな特徴です。
本当に「海に浮かぶ砲台」だった
第二海堡には大口径のカノン砲をはじめ、速射砲や機関砲、探照灯などが設置されました。
兵器の細かな性能を追う必要はありませんが、現在残っている遺構が単なる埋め立て地の跡ではないことは重要です。
第二海堡は、文字通り島全体が東京湾防衛のために造られた軍事施設でした。
しかし、完成したのは1914年です。
1889年の着工から25年のあいだに軍事技術は変化し、その後も艦砲の射程や航空戦力などは進歩していきます。
さらに完成から9年後、第二海堡そのものを大きく傷つける災害が起こりました。
1923年の関東大震災で、三つの海堡の運命が分かれた
1923年9月1日の関東大震災は、東京湾の三つの海堡にも大きな被害を与えました。
ただし、三つが同じように壊れたわけではありません。
国土交通省の整理では、水深の浅い場所に築かれた第一海堡は小被害、中間の第二海堡は中程度の被害、最も深い水深約39メートルの場所に築かれた第三海堡は壊滅的被害でした。
三海堡を比べると違いがよく分かります。
| 第一海堡 | 第二海堡 | 第三海堡 | |
|---|---|---|---|
| 着工 | 1881年8月 | 1889年7月 | 1892年8月 |
| 竣工 | 1890年12月 | 1914年6月 | 1921年3月 |
| 建設期間 | 9年 | 25年 | 29年 |
| 建設地点の最大水深 | 約4.6m | 約12m | 約39m |
| 関東大震災 | 小被害 | 中被害 | 壊滅的被害 |
| 現在 | 現存 | 現存・維持管理 | 撤去 |
第三海堡は震災によって約4.8メートル沈下し、施設の約3分の1が水没。軍事施設としての機能を失いました。
第二海堡も無傷ではありません。
護岸や砲台は大きな被害を受け、陸軍の砲は順次撤去されます。1924年には27センチ隠顕砲などの撤去が始まり、最後まで残っていた中央の27センチ砲も1933年に撤去されました。
この時点で、明治期に想定されていた海上砲台としての第二海堡は事実上役割を終えたと考えられます。
ただし、ここで第二海堡の軍事利用そのものが終わったわけではありません。
砲台を失ったあとも、第二海堡の軍事利用は続いた
第二海堡の歴史を「1923年の震災で役目を終え、そのまま放置された」と説明すると、その後の約20年が抜け落ちます。
陸軍の砲が撤去されていく一方、海軍は第二海堡を別の目的で利用しました。
水中の音を利用して船舶を探知する訓練などが行われ、太平洋戦争期になると第二海堡には再び防空砲台が整備されます。
国土交通省の調査報告書によれば、1941年には第二海堡などで海軍防空砲台の建設が始まり、1942年までに高角砲や指揮所、弾薬庫、探照灯などが整備されました。さらに1944年には12.7センチ連装高角砲2基の据え付けが完了しています。
つまり、
関東大震災によって明治型の海上砲台としての役割は大きく失われたものの、第二海堡の軍事利用自体は太平洋戦争末期まで続いた
とするのが正確です。
この区別は重要です。
第二海堡が現在まで残った理由は、軍事施設として現役だったからではありません。しかし「100年以上前に完全に軍事利用を終えた島」でもなかったのです。
本当の大きな転換は、第二次世界大戦の終結後に訪れます。
戦後、米軍による爆破と波浪で島はさらに傷んだ
戦後、第二海堡は米軍に接収されました。
国土交通省によれば、砲台や煉瓦構造物、護岸など島内の施設が爆破されています。
すでに関東大震災で被害を受けていたところへ、さらに大きな損傷が加わったことになります。
その後も台風や波浪によって護岸の崩壊と島内部の浸食が進み、一部では護岸が海中へ没しました。
ここまで聞くと、自然な疑問が生まれます。
東京湾防衛という当初の役割は終わった。
震災で傷み、戦後には爆破までされた。
さらに海から削られ続けている。
それなら、いっそ全部撤去した方がいいのではないか。
実際、三つあった海堡のうち一つは国によって撤去されています。
第三海堡です。
第三海堡は「残っていること」が危険になった
第三海堡は、第二海堡から南へ2611メートルほど離れた場所に建設されていました。
水深は約39メートル。
三つの中で最も深く、1892年の着工から1921年の完成まで29年を費やした、非常に難しい海洋土木工事でした。
ところが完成からわずか2年後、関東大震災によって約4.8メートル沈下し、約3分の1が水没します。
その後も波浪による崩壊が進み、第三海堡は次第に暗礁化しました。
問題は、その場所です。
第三海堡は浦賀水道航路に接する位置にあり、船舶の座礁だけでなく、それを避けようとした船同士の衝突まで起きていました。
国土交通省によると、1974年から2000年までに東京湾口で発生した主な海難事故15件のうち、11件が第三海堡に関連していました。
そこで国は2000年12月から第三海堡の撤去工事を開始。
2007年8月までに、土砂やコンクリート塊などを取り除き、大型船の航行に必要な水深マイナス23メートルを確保しました。撤去されたコンクリート塊の一部は漁礁などに再利用されています。
第三海堡にも当然、近代土木史上の価値はありました。
それでも撤去されたのは、
その場所に残っていること自体が、現在の船舶航行を危険にしていたから
です。
そして第二海堡では、これと正反対の問題が起きます。
第三海堡は「あると危険」、第二海堡は「崩れると危険」
この違いこそ、今回の一番面白いところです。
第三海堡は、震災後に水没・暗礁化し、残骸そのものが航路の障害になりました。
だから撤去された。
一方の第二海堡は、傷みながらも現在まで人工島としてまとまった形を残しています。
ところが、その第二海堡が大きく崩壊すると、島を造っている大量の石材や土砂が海へ流れ出し、今度はそれが航路を塞ぐ可能性があります。
だから第二海堡は、崩れないように補強されたのです。
第三海堡は、
残っていることが危険。
第二海堡は、
崩れることが危険。
処置は「撤去」と「補強」で正反対ですが、判断の基準は同じです。
東京湾を船が安全に通れる状態にしておくこと。

明治時代にどれほど軍事的価値があったかではなく、現在の東京湾にどんな影響を与えるかが、二つの海堡の運命を分けました。
第二海堡が崩れると、約100m先の航路へ土砂が流れる
第二海堡のすぐそばには浦賀水道航路があります。
国土交通省によると、島と航路が最も近い場所では、その距離は約100メートルです。
第二海堡は約49万立方メートルの石材と約30万立方メートルの砂を使って造られました。
もし大規模な地震によって護岸や斜面が崩壊すれば、その一部が海へ流出します。
そして潮や波によって移動すれば、わずか100メートル先にある航路へ土砂が入り込むおそれがあります。
航路の必要な水深が確保できなくなれば、大型船は安全に通れません。
国土交通省自身が、第二海堡を整備する理由を、
船の安全・安心を守るため
と説明しています。
ここで第二海堡を維持する意味が、「古いものを残す」という歴史保存とは別のところにあることが分かります。
島を守ることが、その横を通る現代の航路を守ることになっているのです。
大地震の直後ほど、航路を塞がせるわけにはいかない
この問題は、大規模地震を考えるとさらに重くなります。
首都圏で大地震が起きれば、道路や鉄道など陸上交通も大きな被害を受ける可能性があります。
その際、海上から食料や資材、緊急物資を運び込めることは重要です。
ところが、その同じ地震によって第二海堡が崩れ、浦賀水道航路に土砂が流れ込めば、
物資を船で運びたい最も重要なときに、東京湾へ船が入りにくくなる
という事態が起こり得ます。
国土交通省は第二海堡の護岸を補強することで、大規模地震でも土砂が航路へ流出するのを防ぎ、緊急物資や資材を安全に運べる状態を確保すると説明しています。
東京湾中央航路は、東京港、横浜港、千葉港などへ出入りする船舶が利用する海上交通の要衝です。
2026年度の国土交通省資料では、コンテナ船などを含め約500隻/日の船舶が航行する海域と説明されています。
「第二海堡の一部が崩れる」というだけなら局地的な話に見えます。
しかし、そのすぐ先に日本最大級の物流圏へつながる航路がある。
それが、国がこの古い人工島を現在まで管理し続ける理由です。
明治の石を、現代の鋼管で外側から支えた
第二海堡の護岸整備は、工事そのものにも面白い部分があります。
もともとの第二海堡は、海底へ基礎石を投入し、その上へ大きな石を積み、内部を土砂で埋めて造られています。
ところが100年以上が過ぎると、その明治時代の石材が現在の補強工事では支障物にもなります。
国土交通省が公開している施工手順では、まず地中や海中に散乱・埋没した石材などを除去し、その後、自立式連続鋼管矢板を打設しています。
難しい名前ですが、考え方は比較的シンプルです。
大きな鋼管状の矢板を島の外周へ連続して打ち込み、人工島の外側を現代の構造物で支える。
つまり、
明治時代に石と砂で造った人工島を、現代の鋼鉄で外側から支え直した
ことになります。
昔の姿へ完全復元する工事ではありません。
目的は、現在の東京湾で安全に存在できる構造へ変えることです。
大規模な護岸整備は2025年3月に完了した
「第二海堡は今もずっと補強工事中」と考えるのも、2026年現在では少し違います。
国土交通省によると、第二海堡の外周を保全する護岸整備は2007年から2025年にかけて実施され、2025年3月に完了しました。
長期間続いた大規模な補強は、ひとまず一区切りついたことになります。
しかし、それで第二海堡が国の管理から外れたわけではありません。
2026年4月21日に公表された令和8年度の東京湾口航路事務所事業概要には、第二海堡を国直轄管理としたうえで、
「第二海堡の維持管理工事を実施します」
と明記されています。
つまり現在は、
大規模補強を終えた島を、航路安全のため継続的に維持する段階
に入っています。
なお、同資料に記載される2026年度の事業費6.13億円は、第二海堡だけの年間維持費ではありません。
航路管理パトロール、管理測量、第二海堡の維持管理、中ノ瀬西方海域での浅瀬浚渫に向けた調査などを含む東京湾中央航路開発保全航路整備事業全体の金額です。
「第二海堡だけに毎年6億円以上かけている」とするのは誤りです。
第二海堡は「保存されているだけの島」でもない
ここから、第二海堡にはもう一つ意外な面が見えてきます。
現在の第二海堡は、明治時代の遺構を残すだけの場所ではありません。
定住者のいる島ではありませんが、何にも使われていない島でもないのです。
第二海堡灯台は現在も使われている
第二海堡には現在も灯台があります。
海上保安庁の東京湾海上交通センターは、2026年8月現在も第二海堡灯台の気象情報を更新しており、風向や風速を確認できます。
建設当初の灯台がそのまま現役という意味ではありません。
重要なのは、かつて砲台が置かれていた人工島に、現在も船の安全に関係する設備が置かれていることです。
「第二海堡」は波浪観測地点にもなっている
国土交通省の全国港湾海洋波浪情報網「ナウファス」でも、第二海堡は観測地点の一つとして記載されています。
波高と波向を測る超音波ドップラー式波浪計が設置され、東京湾の海象を把握するために利用されています。
昔は敵艦の侵入を監視するための場所でした。
現在は、海そのものの状態を知るための観測地点としても使われています。
海上災害へ備える消防演習場もある
さらに第二海堡には、海上災害防止センターの消防演習場があります。
2026年度の液化アンモニア事故対応コースでも、3日目の応用実習場所として「消防演習場(第二海堡)」が指定されています。
船舶や危険物に関係する事故へ備えるための訓練施設です。
かつては武器を置いた島。
現在は灯台、海象観測、消防訓練などを通じて海上交通の安全に関わる島。
第二海堡の役割は大きく変わりました。
「船を止める島」から「船を安全に通すための島」へ
第二海堡の歴史には、かなり鮮やかな反転があります。
造られた当初の目的は、
敵艦を東京湾へ入れないこと。
2026年現在、国が第二海堡を維持する大きな理由は、
自らが崩壊して船の航行を妨げないこと。
そのうえ灯台や観測、消防訓練など、船を安全に運航する側の用途まで加わっています。
もちろん、
「現在も東京を守る要塞」
と呼ぶのは適切ではありません。
軍事施設としての意味と、現在の航路保全・安全管理はまったく別のものです。
それでも役割だけを並べると、
かつて船を通さないために造った島が、現在では船を安全に通すために維持されている。
という変化が見えてきます。
第二海堡が「昔の軍事遺産」というだけでは説明できない理由も、ここにあります。
一般人は第二海堡へ上陸できる?
第二海堡は、誰でも自由に上陸できる場所ではありません。
東京湾口航路事務所は2026年現在も、
「第二海堡は許可無く立ち入りはできません」
と案内しています。
一方、「一般人は絶対に入れない秘密の島」という説明も間違いです。
2018年には試験的な上陸ツアーが行われ、その結果を受けて2019年5月11日から本格的な第二海堡上陸ツアーが始まりました。
現在も国土交通省の公式サイトに第二海堡上陸ツーリズムの案内があります。
ただし上陸には東京湾口航路事務所の許可が必要で、利用できる区域や時間にも制限があります。
つまり、
無断上陸は禁止。許可されたツアーなら上陸できる。
というのが正確です。
歴史的な遺構であると同時に、現在も管理施設や訓練施設を抱える場所だからこその扱いです。
第一海堡はどうなった?
「第二」「第三」と聞けば、当然第一海堡も気になります。
第一海堡も現在残っています。
富津岬先端の比較的浅い海中に築かれ、1881年8月に着工、1890年12月に完成しました。三海堡の中では関東大震災の被害も比較的小さいものでした。
現在の東京湾には、
現存する第一海堡
維持管理と各種利用が続く第二海堡
航路安全のため撤去された第三海堡
という三つの異なる結末があります。
今回の第二海堡が面白いのは、その中でも「残す理由」が100年以上前とはまったく変わっていることです。
第二海堡は、歴史遺産だから残っているだけではない
第二海堡には歴史的価値があります。
明治期の海洋土木技術を伝える人工島であり、東京湾要塞の痕跡も残ります。上陸ツーリズムが行われていることからも、歴史資源としての価値が活用されていることは確かです。
しかし、
「国がなぜ現在も第二海堡を維持しているのか」
という問いへの中心的な答えを「歴史保存」だけにすると、本質を外します。
第三海堡にも歴史的価値はありました。
それでも、暗礁となって船の航行を妨げたため撤去されました。
一方の第二海堡は、島として残っているからこそ、崩壊して航路へ土砂を出さないよう維持する必要があります。
この二つを分けたのは、
昔の要塞としてどちらが重要だったかではありません。
現在の東京湾を、船が安全に通れる状態にするにはどうするべきか。
その判断でした。
第二海堡とは何ですか?
第二海堡は、首都東京や横須賀軍港を防衛するため、明治時代から大正時代にかけて東京湾に造られた人工島型の海上要塞です。
1889年7月に着工し、人工島部分を1899年に完成、その後砲台などを整備して1914年6月に全体が竣工しました。
第二海堡は2026年現在も残っていますか?
残っています。
2007年から続いた大規模な護岸整備は2025年3月に完了しましたが、第二海堡は現在も国直轄管理の対象であり、2026年度も維持管理工事が実施されています。
なぜ第二海堡を撤去しないのですか?
第二海堡と浦賀水道航路が最短約100メートルしか離れていないためです。
大規模地震などで島が崩壊すると、石や土砂が海へ流れ、航路へ入り込むおそれがあります。そのため国が島を安定した状態に維持しています。
第三海堡はなぜ撤去されたのですか?
第三海堡は1923年の関東大震災で約4.8メートル沈下し、施設の約3分の1が水没しました。
その後、暗礁化した残骸が船舶航行の障害となったため、2000年12月から2007年8月まで撤去工事が行われました。
第二海堡は現在何に使われていますか?
軍事施設としては使われていません。
一方で、第二海堡灯台の気象観測、第二海堡を名とする波浪観測地点、海上災害防止センターの消防演習場など、現在も海上交通や防災に関係する用途があります。
一般人も第二海堡へ行けますか?
無断上陸はできません。
ただし、2019年から本格化した許可制の上陸ツアーを利用すれば、条件を満たした範囲で上陸できます。
まとめ|大砲を置いた島は、「崩れないこと」で東京湾を守るようになった
第二海堡は、1889年から25年をかけて東京湾に築かれました。
海底へ大量の石と砂を投入して人工島を造り、その上へ砲台を建設する。
目的は、東京湾へ侵入する敵艦を止めることでした。
ところが完成から9年後、関東大震災が三つの海堡の運命を変えます。
第一海堡は比較的小さな被害で残り、第二海堡は大きく傷み、第三海堡は壊滅的な被害を受けました。
第二海堡では陸軍の砲が順次撤去されますが、その後も海軍の訓練や太平洋戦争期の防空砲台として軍事利用が続きます。
そして戦後、米軍による爆破と長年の波浪によって、島はさらに傷んでいきました。
ここから先の運命を決めたのは、軍事施設としての価値ではありません。
第三海堡は、海中に残った構造物そのものが船の障害になったため撤去されました。
第二海堡は逆に、崩壊すると大量の石や土砂が約100メートル先の航路へ流れ込み、船の障害になるおそれがあるため補強されました。
第三海堡は、「残っていること」が危険だった。
第二海堡は、「崩れること」が危険だった。
一方を撤去し、一方を維持する。
正反対に見える判断をつないでいるのは、同じ目的です。
現在の東京湾を、船が安全に通れる状態にしておくこと。
大規模な護岸整備は2025年3月に終わりましたが、第二海堡は2026年現在も国直轄で維持管理されています。
さらに灯台、波浪観測、海上災害の消防訓練など、現代の海上交通を支える用途も残っています。
明治時代、第二海堡は船を東京湾へ入れないための島として造られました。
100年以上を経た現在は、自らが崩れて船を止めてしまわないよう守られ、同時に船の安全を支える場所へ変わっています。
第二海堡が現在も東京湾に残っているのは、昔の要塞をただ保存したかったからではありません。
かつての軍事施設が、姿を残したまま現代のインフラの一部へ組み込まれたからです。
その意味では、第二海堡で最も不思議なのは「なぜ明治の要塞が残ったのか」ではなく、
残った要塞を、現代の東京湾が必要とする理由が新しく生まれていたこと
なのかもしれません。