- 日本はなぜJapan?語源をたどるとジパングだけでは説明できなかった
- Nipponが訛ってJapanになったわけではない
- そもそも「日本」という国名はいつ生まれた?
- 「にほん」と「にっぽん」はなぜ2つある?
- マルコ・ポーロが伝えた「Cipangu」
- では「ジパング」が縮まって「ジャパン」になったのか
- もう一つのルートは「マラッカ」にあった
- ポルトガル人が日本へ来る前に「Jampon」は記録されていた
- Japão、Iapam、Giapan……16世紀はまだ綴りが揺れていた
- 1577年、英語に「Giapan」が現れる
- 1603年の『日葡辞書』では「Iapam」
- ヨーロッパでは国ごとに少しずつ違う形になった
- 結局、なぜ英語では「Japan」が残った?
- 「日本をJapanと呼ぶ」のは特殊なことではない
- 一度は「JapanをNipponに変えよう」という動きもあった
- 「日本」という名前そのものをもっと知りたいなら
- 「Japan」の歴史を時系列で整理すると
- よくある「Japanの由来」を整理すると
- 「YEN」にも似た、昔の音が現在まで残る話がある
- まとめ|Japanという5文字には、国名が海を渡った歴史が残っている
日本はなぜJapan?語源をたどるとジパングだけでは説明できなかった

日本は「日本」と書きます。
読み方は「にほん」または「にっぽん」。ところが英語になると、突然Japanです。
Nihon。Nippon。Japan。
並べてみると、ほとんど別の言葉に見えます。
しかも話をさらにややこしくするのが、マルコ・ポーロの『東方見聞録』で知られる「ジパング」です。日本について調べると、「ジパングが訛ってジャパンになった」「中国人の発音が変化してJapanになった」といった説明も見つかります。
では、実際にはどこまで分かっているのでしょうか。
先に結論
Japanは、日本語のNipponが英語風に訛って生まれた言葉ではありません。Nippon/NihonとJapanは、遠くさかのぼれば同じ漢字の「日本」に関係しますが、その音が伝わった経路が違います。英語史辞典Oxford English Dictionary(OED)が採る有力な説明では、歴史上の中国語系の「日本」の音がマレー世界を経てヨーロッパへ伝わり、ポルトガル語やオランダ語などの影響を受けながら英語Japanにつながったとされています。
そして大切なのは、「語源をさかのぼれば同じ」ことと、「ジパングがそのままJapanへ変化した」ことは同じではないという点です。
現在何気なく使っている「Japan」という5文字を追いかけると、日本、中国、東南アジア、そしてヨーロッパをまたぐ長い情報の旅が見えてきます。
Nipponが訛ってJapanになったわけではない
まず、一番ありがちな誤解を取り除いておきましょう。
Nippon → Japan
という音の変化が、日本語から英語への間で起きたわけではありません。
日本国内では「日本」という漢字をNipponやNihonと読みました。一方、日本の外では、同じ「日本」に関係する名称が中国語圏や東南アジアの交易圏を通り、その地域の音に合わせて別の形になっていきました。
英語史研究者の堀田隆一氏が紹介しているOEDの語源説明では、英語Japanを、マレー語のJăpung/Japang系の形から説明し、そのさらに先に中国語の「日本」に相当する名称を置いています。
つまり、ざっくり言えばこうです。
日本国内
「日本」 → Nippon/Nihon
海外へ伝わった系統
「日本」に関係する中国語系の名称 → 東南アジアの言語・交易圏 → ヨーロッパ諸語 → Japan
出発点には同じ二文字がある。それでも通った言語と土地が違えば、最終的な音はこれだけ離れるということです。
そもそも「日本」という国名はいつ生まれた?
Japanを追う前に、その大元にある「日本」について少し確認しておく必要があります。
日本列島の国家は、中国側の史書などでは長く「倭」「倭国」と呼ばれていました。そこから「日本」という国号へ移った時期は、単純に「701年のこの日に決まった」と一点で確定できるものではありません。
現在は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて「日本」の国号が成立・定着していったと見るのが安全です。
國學院大學が日本古代史研究者・鈴木靖民氏の解説を紹介した記事によると、663年の白村江の戦い以降途絶えていた中国への使節派遣は702年に再開され、この遣唐使には「天皇」号と「日本」という国号を採用したことを中国側へ伝える役割もあったとされています。
つまり702年の時点では、すでに「日本」を名乗る方向へ進んでいたことになります。
「日本」は文字通り「日の本」と解釈され、中国から見た東方、日の昇る方向という世界観とも関係します。ただし、607年の遣隋使で有名な「日出づる処の天子」という言葉が、そのまま直接「日本」という国号を生んだ、と断定できる資料はありません。
ここは「関係する思想的背景」と「直接の語源」を分けて考えた方がよいところです。
「にほん」と「にっぽん」はなぜ2つある?
Japan以前に、もう一つ気になることがあります。
同じ「日本」なのに、なぜ日本人自身も「にほん」と「にっぽん」という2種類の読み方を使うのでしょうか。
これも「昔は絶対にニッポンだけだった」と単純には言えません。
16世紀末から17世紀初頭のキリシタン資料を見ると、すでにNippon系とNifon(ニフォン/ニホンにつながる形)系の両方が確認されています。
1603年に刊行が始まった『日葡辞書』についても、OEDはNipponとNifonの双方が記録されているとしています。
そして現代でも、政府は一方だけを正式な読みにはしていません。
2009年6月30日の政府答弁書では、「にっぽん」「にほん」はいずれも広く通用しており、どちらか一方へ統一する必要はない、という見解が示されています。
したがって、
「正式名称はニッポンで、ニホンは俗称」
という説明は正確ではありません。
マルコ・ポーロが伝えた「Cipangu」
ここで、あの「ジパング」が登場します。
13世紀末、マルコ・ポーロの旅行記として伝わった『東方見聞録』には、日本に相当する島がCipangu、Çipingu、Chipangu、Zipanguなどの形で登場します。
表記が一つに定まらないのは、現存する写本・伝本にさまざまな異綴りがあるためです。
Paul Pelliotの校注資料では、Çipingu、cimpagu、ziampagu、sypangu、zipanguなど、かなり多くの形が整理されています。
この名称は古くから、中国語の「日本国」に相当する名称を写したものと解釈されてきました。
だから「ジパングの最後の『グ』は『国』に由来する」と説明されることがあります。大筋ではその解釈につながりますが、歴史上の中国語音そのものにも議論があるため、一文字ずつ機械的に現在の発音へ対応させるのは避けた方がいいでしょう。
マルコ・ポーロ本人は日本へ来ていない
ここも重要です。
マルコ・ポーロ自身は日本を訪れていません。
彼の日本についての記述は伝聞に基づくもので、日本を金が豊かな島として描いたことでも有名です。
この「黄金の島Cipangu」というイメージは中世ヨーロッパの地理認識に強く残り、のちの大航海時代にも影響を与えました。
ただし、「マルコ・ポーロがJapanという国名を作った」わけではありません。
彼が伝えたのはCipangu系の名称です。
では「ジパング」が縮まって「ジャパン」になったのか
ここが、この話で最も誤解されやすい部分です。
よく見る説明では、
Cipangu → Zipangu → Jipangu → Japan
と一本の線で結ばれています。
見た目には分かりやすいのですが、語源資料をたどると、そこまで単純ではありません。
OEDの説明では、マルコ・ポーロのChipanguを、中国の日本名がヨーロッパへ到達した早い形として紹介する一方、現在のJapan系の形については、マレー語のJăpung/Japangを介した別の経路を説明しています。
岡本良知の研究でも、Cipangu系とJapan系について、意味の出発点は同じでも、ヨーロッパへ伝わった経路は別に考えるべきだという整理がされています。
つまり、
「ジパング」と「ジャパン」は無関係ではありません。しかし、「ジパングという言葉が時間とともに縮まってJapanになった」と一本道で説明するのも正確ではありません。
どちらも遠くをたどれば「日本」という国名に関係する。ただし、その音が西へ運ばれた経路が違ったと考える方が、現在確認できる資料には合っています。
もう一つのルートは「マラッカ」にあった
Japanの歴史を考えるうえで重要な場所が、現在のマレーシアにあるマラッカです。
16世紀初頭のマラッカは、中国、東南アジア、インド、イスラム圏などを結ぶ巨大な交易拠点でした。
ポルトガルは1511年にマラッカを占領します。
ここでヨーロッパ人は、それまで自分たちが直接訪れていなかった東アジアの土地についても、商人や船乗りを通じて情報を得ることができました。
OEDが採用する有力な説明では、歴史上の中国語の「日本」に関係する名称が、この東南アジアの交易圏でJapang/Japung系の形になり、それをポルトガル人などが受け取ったとされています。
ただし、この経路の細部には議論があります。
「何年に、どの中国語方言から、誰がマレー語へ借用したか」まで連続した一次資料で再現できるわけではありません。マレー語経由を有力説として紹介しつつ、完全確定した一本道として描かないのが適切でしょう。
ポルトガル人が日本へ来る前に「Jampon」は記録されていた
ここから一気に面白くなります。
ポルトガル人と日本人の最初の本格的な接触は、在ポルトガル日本国大使館が案内している通り1543年の種子島です。
ところが、それより約30年早い時期に、Japanにつながる名称がヨーロッパ人によって記録されています。
ポルトガル人トメ・ピレスがマラッカやインドで1512~1515年にまとめた『スーマ・オリエンタル(Suma Oriental)』です。
同書の校訂版には、日本がJamponという形で記録されています。
しかもピレス自身が日本へ来て記録したわけではありません。マラッカを行き交う中国人や東アジアの商人などから集めた情報でした。
時系列にすると、その意味がよく分かります。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1511年 | ポルトガルがマラッカを占領 |
| 1512~1515年 | トメ・ピレスが『スーマ・オリエンタル』をまとめ、日本をJamponと記録 |
| 1543年 | ポルトガル人が種子島へ到達。日葡交流が始まる |
つまり、
ポルトガル人が日本へ来て、日本人からNipponという言葉を聞き、それをJapanに変えた――という順番ではないのです。
彼らが日本へ到達する前から、日本を指すJampon系の音はすでに東南アジアの交易網を通って西へ届いていました。
人がまだ日本へ来ていないのに、国の名前の方が先に海を渡っていたわけです。
Japão、Iapam、Giapan……16世紀はまだ綴りが揺れていた
現在のポルトガル語では、日本はJapãoです。
ただし16~17世紀の資料を見ると、現在のように一つの綴りへ固まっていたわけではありません。
Jampon、Japam、Iapam、Japão、Giapanなど、さまざまな形が現れます。
当時はIとJの使い分けを含め、ヨーロッパの綴りそのものが現在ほど固定していなかったことも考慮する必要があります。
したがってIapamを「Japanとはまったく別の国名」と考える必要はありません。
1577年、英語に「Giapan」が現れる
英語で確認できる重要な記録が1577年です。
Richard EdenとRichard Willesに関係する旅行記集『The History of Travayle in the West and East Indies』には、タイトルにGiapanという形が現れます。
OEDも、この1577年のGiapanを英語Japanの初期用例として挙げています。
ここで注意したいのは、最初から現在と同じJapanだったわけではないことです。
英語へ入った段階でもまだGiapanなどの綴りがあり、その後、ヨーロッパ諸語の使用とともに現在のJapanへ落ち着いていきました。
1603年の『日葡辞書』では「Iapam」
Japanという名前の旅を実物の資料で感じやすいのが『日葡辞書』です。
イエズス会によって1603~1604年に刊行された日本語・ポルトガル語辞書で、国立国語研究所が公開している資料名は、
Vocabulario da Lingoa de Iapam com a declaração em Portugues
です。
現在ならJapãoと書くところが、ここではIapamになっています。
しかもこの辞書は日本語をローマ字で記録した資料でもあり、Nippon/Nifon系の読みを考えるうえでも重要です。
1577年のGiapan。1603年のIapam。現代のJapanやJapão。
わずか数十年の資料を並べただけでも、「Japan」が一度に完成した名前ではないことが見えてきます。
ヨーロッパでは国ごとに少しずつ違う形になった
現在でも、日本の呼び方はヨーロッパの言語ごとに少し違います。
| 言語 | 現在の代表的な表記 |
|---|---|
| 英語 | Japan |
| ポルトガル語 | Japão |
| フランス語 | Japon |
| スペイン語 | Japón |
| イタリア語 | Giappone |
| オランダ語 | Japan |
これは、どこかの国が突然「日本をJapanと名付けた」というより、アジアから伝わってきた同系統の名前が、それぞれの言語の音や綴りに合わせて変化した結果と見る方が自然です。
結局、なぜ英語では「Japan」が残った?
ここまで来ると、「では誰が最後にJapanと決めたのか」と聞きたくなります。
しかし、「この人物がこの年にJapanを正式採用した」という一つの決定で説明できるわけではありません。
13世紀末にはCipangu系の名前がヨーロッパに知られ、16世紀初頭にはマラッカでJampon系が記録され、ポルトガル語などで複数の形が使われ、1577年には英語のGiapanが現れます。
その後、大航海時代の交易、宣教師の記録、地図や旅行記の出版、オランダを含むヨーロッパ諸国との情報交換を通してJapan系の名称が広がり、英語ではJapanが定着していきました。
名前の歴史そのものが、当時の情報流通の歴史でもあったわけです。
「日本をJapanと呼ぶ」のは特殊なことではない
自国で使う名前と外国から呼ばれる名前が大きく違う国は、日本だけではありません。
ドイツは自国語でDeutschlandですが、英語ではGermany。フィンランドはフィンランド語ではSuomi、ギリシャも自国語系ではHellas/Elládaと呼ばれます。
このように、自国で使う名称を内名(endonym)、外国語で使われる名称を外名(exonym)と考えることができます。
Japanも、長い国際交流のなかで定着した外名の一つです。
ただしJapanの場合、その外名が「日本」とまったく無関係な言葉から作られたわけではないところが面白いところです。
遠くをたどれば、NipponもJapanも同じ「日本」という二文字へ戻っていきます。
一度は「JapanをNipponに変えよう」という動きもあった
現在ではJapanが当たり前ですが、20世紀にはこれをNipponへ変えようとする動きもありました。
外務省外交史料館によると、1927年の日本政府は、外国が一般に知られている「Japan」という呼称を使うことについて問題ないとの見解を示していました。
ところが1934年、文部省の臨時国語調査会は国号の呼称を「ニッポン」に統一し、外国向け文書についてもJapanではなくNipponを使う案を政府へ提出しています。
翌1935年にも国号表記の変更を求める動きがありました。
ただし、ここでも結果を誇張してはいけません。
英語国名が正式にJapanからNipponへ変更されたわけではありません。
外務省によれば、英語表記について最終的な統一見解は示されませんでした。
「日本」という名前そのものをもっと知りたいなら
Japanの語源を追うと、最後には「では、その大元にある『日本』という国号はどこから来たのか」という疑問へ戻ってきます。
『古事記』には「日本」が現れない一方、『日本書紀』には現れることや、「倭」から「日本」への変化、古代中国の世界観との関係まで掘り下げたい場合は、神野志隆光『「日本」国号の由来と歴史』が今回の記事と非常につながりやすい一冊です。
「Japan」の歴史を時系列で整理すると
| 時期 | 名称・出来事 | ポイント |
|---|---|---|
| 7世紀後半~8世紀初頭 | 国号「日本」が成立・定着していく | 「701年に突然誕生」とは断定しない |
| 702年 | 遣唐使が再開 | 「日本」国号の採用を中国側へ伝えたとされる |
| 13世紀末 | Cipangu/Çipinguなど | Marco Poloの旅行記伝本に現れる |
| 1511年 | ポルトガルがマラッカを占領 | 東西交易の巨大な情報拠点となる |
| 1512~1515年 | Jampon | Tomé Pires『Suma Oriental』に現れる |
| 1543年 | ポルトガル人が種子島へ到達 | Jamponの記録より後 |
| 1577年 | Giapan | 英語資料で確認できる初期形 |
| 1603~1604年 | Iapam | 『日葡辞書』の題名に残る |
| 1934年 | Nippon使用案 | 国内読みと外国語表記の統一を求める動き |
| 2009年 | Nihon/Nippon | 政府は一方への統一は不要との見解 |
よくある「Japanの由来」を整理すると
| よくある説明 | 判定 | 実際には |
|---|---|---|
| Nipponが訛ってJapanになった | 誤解を招く | 日本語内部でNippon→Japanと変化したわけではない |
| NipponとJapanは完全に無関係 | 誤り | 遠くさかのぼれば双方とも「日本」に関係する |
| 現在の中国語RìběnがJapanになった | 誤解を招く | 現代標準中国語を中世・近世の中国語へそのまま当てはめられない |
| Marco PoloがJapanと名付けた | 誤り | Marco Poloが伝えたのはCipangu系 |
| ジパングがそのままJapanになった | 単純化しすぎ | Cipangu系とJapan系は異なる経路で欧州へ届いたとする説明が有力 |
| Cipanguは「日本国」に由来する | 有力 | 古くから「日本国」に対応する中国語系名称の転写と解釈されている |
| ポルトガル人がJapanという名前を発明した | 誤り | ポルトガル人が日本へ到達する前にJamponが記録されている |
| マレー語を経由した | 有力説 | OEDなどが採用。ただし経路の細部まで完全確定しているわけではない |
| Nipponだけが正式な読み | 誤り | 政府はNihon/Nipponの一方へ統一していない |
| 日本という国号は701年に誕生した | 断定できない | 7世紀後半~8世紀初頭の成立・定着として扱う方が安全 |
| JapanをNipponへ変更しようとしたことがある | 確認できる | 1930年代に動きがあったが、英語表記の正式変更には至らなかった |
「YEN」にも似た、昔の音が現在まで残る話がある
外国語の表記に、昔の発音や表記の歴史が残り続ける例はJapanだけではありません。
日本の通貨「円」も、現在の日本語を普通にローマ字化すれば「EN」に見えるのに、国際的には「YEN」が定着しています。
こちらも一つの単純な理由だけでは説明できず、幕末・明治のローマ字表記や外国との接触を追う必要があります。
詳しくは、「円」なのになぜ“EN”ではなく「YEN」?150年以上残る“謎のY”を追うで検証しています。
まとめ|Japanという5文字には、国名が海を渡った歴史が残っている
日本が英語でJapanと呼ばれる理由は、「外国人が日本とは無関係な名前を勝手に付けたから」ではありません。
かといって、日本語のNipponがそのまま訛ってJapanになったわけでもありません。
Nippon/NihonもJapanも、遠くたどれば同じ「日本」という名前に関係します。
ただし日本国内では日本語として読まれ、国外では歴史上の中国語系の名称から東南アジアの交易圏へ伝わり、ヨーロッパの言語へ取り込まれていきました。
中世ヨーロッパにはCipanguという形が伝わり、16世紀にはマラッカ周辺の情報からJamponが記録されます。
そのJamponは、ポルトガル人が1543年に日本へ到達するより前の記録です。
1577年には英語でGiapan。1603年の『日葡辞書』ではIapam。そして長い時間を経て、英語では現在のJapanが定着しました。
普段は何も考えずに書いているJapanという5文字ですが、その形ができるまでには、中国と東南アジアを結ぶ交易、マラッカへ進出したポルトガル人、宣教師、大航海時代の地図や旅行記など、何世紀にもわたる人と情報の移動がありました。
だからNipponとJapanは、これほど似ていません。
まったく別の名前だからではなく、同じ「日本」という名前が、それぞれ違う道を歩いてきたからです。