- 湖の水が減ると「昔の町」が現れる?夕張・シューパロ湖の底に沈んだ鹿島地区
- シューパロ湖の底には、かつて「鹿島」という生活の場所があった
- 「2万人の町をダムで追い出した」という理解では時間が抜け落ちる
- 実はシューパロ湖には「二つのダム」の歴史がある
- 新しいダムは、古いダムの約155m下流に造られた
- 現在の湖底には、昔の大夕張ダムそのものが残っている
- 鹿島が水の下へ入っていったのは2014年から
- それでも、町を「そのまま」水没させたわけではない
- なぜ水位が下がると昔の道路が現れるのか
- 湖底に沈む「三弦橋」とは
- 最初のダムが造らせた橋を、次のダムが沈めた
- 文化財なのに、なぜ水中へ残したのか
- 2019年、沈んだ三弦橋が再び水面へ現れた
- 鹿島の「町の輪郭」も、水位次第で戻ってくる
- 旧鹿島地区は自由に歩ける場所ではない
- 水位が低いからといって、必ず異常な渇水とは限らない
- 鹿島がなくなった理由は「ダムだけ」ではない
- 湖の底にあるのは、一度に消えた町ではない
- シューパロ湖の底には本当に町がありますか?
- 鹿島地区には本当に2万人が暮らしていましたか?
- なぜ鹿島地区はなくなったのですか?
- 水位が下がると何が見えますか?
- 三弦橋は今も残っていますか?
- 昔の大夕張ダムも湖底にあるのですか?
- 旧鹿島地区を歩くことはできますか?
- まとめ|水が引いたとき戻ってくるのは「廃墟」ではなく、町の輪郭
湖の水が減ると「昔の町」が現れる?夕張・シューパロ湖の底に沈んだ鹿島地区

北海道夕張市の東側、夕張岳の麓に広がるシューパロ湖。
山々に囲まれた巨大な湖ですが、水位が下がると、普段は水の底にあるものが再び姿を見せることがあります。
湖の中へ伸びていく古い道路。住宅があった場所の跡。そして、さらに水位が下がったとき、ごく一部が水面上へ現れることがある巨大な鉄道橋。
なぜ、湖の底にこんなものが残っているのでしょうか。
理由は単純です。
現在のシューパロ湖の底には、かつて「鹿島」と呼ばれ、人々が暮らしていた地域があるからです。
夕張市は、炭鉱で栄えた鹿島地区には最盛期に最大約2万人が暮らしていたと案内しています。現在、鹿島眺望公園から見える静かな湖の下には、道路があり、学校があり、住宅があり、人々の日常がありました。
ただし、ここで最初に一つ大きな誤解を解いておく必要があります。
2万人が暮らす町を、ダム建設のために一度に移転させ、そのまま水没させたわけではありません。
鹿島を大きく変えた最初の転換点は、ダムよりもはるか前に起きた炭鉱の閉山でした。
1973年に三菱大夕張炭鉱が閉山すると鹿島の人口は減少し、1995年には471人まで縮小。その後、1998年に夕張シューパロダム建設に伴って残っていた全戸が移転しました。
さらに新しいダムの試験湛水が始まった2014年から土地の水没が進み、2015年には夕張シューパロダムが本格的な管理へ移ります。
しかも、現在の湖の底に残っているのは昔の道路や橋だけではありません。
一つ前のダムそのものまで、水中に残されています。
シューパロ湖は、「昔の町が沈んだ湖」というだけではありません。炭鉱、鉄道、二世代のダム、そしてそこに暮らした人々の時間が、現在の水面の下に重なっている場所なのです。
シューパロ湖の底には、かつて「鹿島」という生活の場所があった
鹿島は独立した市町村ではなく、夕張市の一地区でした。
しかし、炭鉱最盛期の規模は「山奥の小さな炭鉱集落」という言葉から想像するものより、はるかに大きなものでした。
大夕張では20世紀初頭から石炭開発が進み、三菱が経営を引き継いだのち、炭鉱開発とともに鉄道や住宅地も広がっていきます。1929年には三菱鉱業所の専用鉄道が南大夕張から北大夕張まで延び、北側の炭鉱地域と生活圏を結びました。
「1929年に鹿島が誕生した」と年を一点に固定するのは難しいものの、炭鉱開発の拡大とともに鹿島側の町も成長していったことは確かです。
夕張市が2026年現在案内している最盛期人口は最大約2万人。
そこにあったのは炭鉱住宅だけではありません。
学校があり、商店があり、道路があり、鉄道があり、炭鉱で働く人とその家族の生活を支える一つの大きな地域社会が形成されていました。
現在の鹿島眺望公園には、旧夕張東高等学校や旧鹿島小中学校など、鹿島地区にあった学校の閉校記念碑や石碑が移されています。
今の景色だけを見ると、そこに多数の人が暮らしていたとは想像しにくいかもしれません。
だからこそ、「最大2万人」という数字は強い印象を残します。
しかし、この数字とダム建設時の人口をそのまま結びつけてはいけません。
「2万人の町をダムで追い出した」という理解では時間が抜け落ちる
鹿島の歴史を考えるうえで最も重要なのは、炭鉱最盛期とダム建設のあいだには長い時間があることです。
1973年5月、鹿島を支えてきた三菱大夕張炭鉱が閉山しました。
炭鉱という地域最大の雇用の中心を失ったことで、鹿島からは急速に人が減っていきます。
国勢調査を見ると、その変化はかなりはっきりしています。
1990年の鹿島地区は279世帯、594人。
1995年には224世帯、471人でした。
最盛期には最大約2万人が暮らした地域が、新しいダムによる移転より前の段階ですでに500人を下回っていたことになります。
そして1998年。
夕張市の公式ガイドは、夕張シューパロダム建設に伴って鹿島地区の全戸が移転したと明記しています。

実はシューパロ湖には「二つのダム」の歴史がある
現在の巨大なシューパロ湖を見ると、夕張シューパロダムによって初めて湖ができたように感じるかもしれません。
しかし、シューパロ湖は2015年にゼロから生まれた湖ではありません。
その前に大夕張ダムがありました。
戦後、夕張川流域では農業用水の不足が大きな課題となり、1949年と1950年には深刻な水不足が発生しました。
その対策として建設された大夕張ダムは、かんがい用水の確保と水力発電を主な目的として1962年に完成します。
その貯水池が、最初のシューパロ湖でした。
しかし、その後も流域では治水や利水をめぐる課題が残りました。
そこで既存の大夕張ダムを再開発する形で計画されたのが、現在の夕張シューパロダムです。
新しいダムには、農業用水と発電だけではなく、洪水調節、河川の正常な流量の維持、水道用水の供給といった役割が加わりました。
北海道開発局によると、夕張シューパロダム完成前には、農業用水確保のため農業者が年平均約40日にわたり自主的な取水制限を行っていました。
新ダムの運用開始後はその状況が解消され、従来のおよそ2倍の農地へ農業用水を供給できるようになったとされています。
現在の夕張シューパロダムは、湛水面積15.0平方キロメートル、総貯水容量4億2700万立方メートル。
2026年現在、北海道開発局は湛水面積を全国2位、総貯水容量を全国4位と案内しています。
つまり現在のシューパロ湖は、最初の大夕張ダムによってできた湖を、さらに大きなダムの貯水池が包み込むように拡大した姿なのです。
新しいダムは、古いダムの約155m下流に造られた
二つのダムは遠く離れていません。
夕張シューパロダムは、旧大夕張ダムから約155メートル下流に建設されました。
155メートルという距離は、巨大ダム同士の関係として考えるとかなり近いものです。
旧ダムのすぐ下流に、より高く、より大きな新しいダムを造る。
新ダムの貯水位が上昇すれば、当然ながら一つ前の大夕張ダムは新しい貯水池の中に入ります。

ここで、また一つ不思議なことが起こります。
普通なら、
役目を終えた古いダムを壊してから、新しい湖を造った
と考えたくなります。
実際には、そうではありませんでした。
現在の湖底には、昔の大夕張ダムそのものが残っている
夕張シューパロダム建設時、旧施設のすべてを撤去したわけではありません。
北海道開発局によると、完全に水没する旧施設のうち、
大夕張ダム本体
と
旧二股発電所の下部構造
については、周辺の山の安定性を保つため、そのまま残すことが選ばれました。
一方、露出する金物や電気設備、管理設備などは撤去されています。
古いダムを丸ごと保存したわけでも、何もせず放置したわけでもありません。
地形を安定させるために必要な構造物は残し、水没後に支障となる設備は撤去する。
そのうえで、新しい湖の底へ沈めています。
試験湛水の記録では、旧大夕張ダムが水没したのは2014年4月10日です。
つまり、現在シューパロ湖の底にあるのは、昔の町の痕跡だけではありません。
一世代前の巨大ダムまで、現在のダム湖の中に残っているのです。
インフラが役目を終えるたび、必ず完全撤去されるとは限りません。
シューパロ湖では、古いインフラが次のインフラの下に取り込まれ、現在も地形の一部として残されています。
鹿島が水の下へ入っていったのは2014年から
ここも「2015年に町が沈んだ」と一言でまとめると、実際の流れが見えにくくなります。
夕張シューパロダムでは、2014年3月4日に試験湛水が始まりました。
試験湛水とは、完成したダムへ実際に水を貯め、水位を上げながらダム本体や放流設備、貯水池周辺に問題がないか確認する工程です。
水位は段階的に上昇していき、
2014年4月10日には旧大夕張ダムが水没。
同年4月26日には、後ほど詳しく触れる三弦橋も水面下へ入りました。
11月13日には試験湛水中の最高水位301.5メートルへ到達しています。
そして試験湛水は2015年1月28日に終了。
同年3月7日に竣工式が行われ、その後、2015年度から管理へ移りました。
つまり鹿島地区の水没は、
2015年のある日に突然起きたのではありません。
2014年から始まった試験湛水に伴い水位が上昇し、かつて人が暮らしていた土地や構造物が順番に湖の中へ入っていったのです。
それでも、町を「そのまま」水没させたわけではない
「湖底に昔の町がある」と聞くと、水中に家や商店が完全な形で立ち並んでいる光景を想像するかもしれません。
しかし、シューパロ湖はそうした「水中都市」ではありません。
夕張市が現在確認できる鹿島の痕跡として案内しているのは、
旧国道の道路跡や住宅跡などです。
さらに旧森林鉄道や三菱大夕張鉄道の橋梁、旧大夕張ダムなどの構造物も残っています。
建物が一軒ずつ完全な状態で水中に並んでいるわけではなく、水位が下がったときに見えてくるのは、昔の町を構成していた断片です。
道路があった。
ここに住宅があった。
鉄道が谷を渡っていた。
その断片が再び水面の上へ現れることで、現在の湖面の下に別の地図が重なっていることが見えてきます。
だから「昔の町が現れる」という表現は、街並みが丸ごと復活するという意味ではありません。
かつてそこに町があったことを示す「輪郭」が戻ってくる。
そう考える方が、実際の景色に近いでしょう。
なぜ水位が下がると昔の道路が現れるのか
仕組みそのものは、それほど不思議ではありません。
ダム湖は、常に同じ高さまで水を張った巨大な池ではないからです。
夕張シューパロダムは洪水調節、農業用水、水道用水、発電、河川流量の維持など複数の目的を持っています。
雨や雪解けによって流入量が増えることもあれば、水を利用して貯水量が減ることもあります。洪水に備えて水位を管理する必要もあります。
そのためシューパロ湖の水位は、季節や降水量、ダムの運用状況によって変動します。
現在、夕張市が一般向けの展望場所として案内している鹿島眺望公園でも、「水位が下がると顔を出す旧道」が見どころの一つとして紹介されています。
水面が高ければ、昔の道路は湖底にある。
水位が下がれば、かつて湖岸ではなかった低い土地まで水面の外へ出てくる。
その結果、旧道や町の痕跡が再び見えるわけです。
ただし、
「毎年、夏や秋になれば必ず同じ場所まで町跡が現れる」わけではありません。
何がどこまで見えるかは、そのときの水位によって違います。
中でも特に姿を現しにくいのが、シューパロ湖を象徴する「三弦橋」です。
湖底に沈む「三弦橋」とは
三弦橋の正式名称は、下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁。
1958年、大夕張ダム建設によって最初のシューパロ湖ができる際、森林鉄道を湖の向こうへ通すために架けられました。
全長381.8メートル。
最大支間77メートル、7連。
最大の特徴は、上側に1本、下側に2本の弦材を持つ「三弦トラス」と呼ばれる三角形断面の構造です。
北海道開発局も、鉄道橋として世界的に珍しい構造と説明しています。
大夕張の出身者が基本設計に関わり、夕張岳を背景とする景観との調和も考えられた橋は、郵便局の消印にも描かれるほど地域の象徴になりました。
ところが、その歴史には少し不思議なねじれがあります。
三弦橋は、
一つ目のダムによって湖ができるために造られた橋です。
そして約半世紀後、
二つ目のダムによって、その橋自身が湖の底へ沈みました。
最初のダムが造らせた橋を、次のダムが沈めた
三弦橋が完成したのは1958年。
大夕張ダム完成の4年前です。
大夕張ダムによって谷に湖ができるため、それまで通っていた森林鉄道を新しいルートで湖の向こうへ渡す必要がありました。
そのために造られたのが三弦橋です。
ところが、鉄道橋としての活躍は長くありませんでした。
夕張市の現在の観光ページには夕張岳線廃止を1963年とする記載がありますが、林野庁の国有林森林鉄道路線一覧では1964年とされています。資料に差があるため、年を厳密に扱うなら林野庁の路線資料を基準に1964年と見るのが妥当でしょう。
いずれにしても、橋が森林鉄道に使われた期間は6年前後にすぎません。
その後も三弦橋は撤去されず、シューパロ湖を代表する景観の一つとして残りました。
そして2014年、夕張シューパロダムの試験湛水が始まります。
北海道開発局の湛水記録によれば、2014年4月26日から三弦橋は水没しました。
夕張市の観光案内には「2015年3月に水没」とする記載もありますが、実際の湛水を日付ごとに記録した北海道開発局資料では2014年4月26日が確認できるため、本稿ではこちらを採用します。
最初のダム湖を渡るために造った橋が、次のダム湖の底に入っていく。
シューパロ湖に重なる二つの時代を、三弦橋ほど分かりやすく示す構造物はありません。

文化財なのに、なぜ水中へ残したのか
さらに不思議なのは、三弦橋が「不要になったから撤去せず放置された橋」ではないことです。
2012年9月21日、夕張市は三弦橋を含む「夕張シューパロダム湖周辺の橋梁群とその景観」を市指定文化財の記念物に指定しました。
旧大夕張ダム周辺では、旧森林鉄道や旧三菱大夕張鉄道に関係する25の橋梁が確認されています。
ただし、これは「25本すべての橋が完全な姿で水中に残っている」という意味ではありません。橋脚だけが残るものなども含まれています。
興味深いのは、文化財指定の考え方です。
普通、「橋を保存する」と聞けば、解体して別の場所へ移設する姿を想像します。
しかし夕張市は、ダム完成後に橋梁の多くが水没することを踏まえたうえで、
現状のまま残し、その記憶を伝えることで「ありのままの地域遺産」として継承する
という考え方を示しています。
つまり、
文化財なのに水没させた
のではありません。
水没していくその場所も含めて、地域の歴史として残すことが選ばれた。
三弦橋は、保存と水没が必ずしも正反対ではないことを示す珍しい例でもあります。
もちろん、文化財指定されたから水中で永久に同じ状態が保たれるという意味ではありません。
物理的な劣化と、「その場所に地域の記憶を残す」という文化財としての考え方は別のものです。
2019年、沈んだ三弦橋が再び水面へ現れた
夕張シューパロダムの運用開始から4年ほど経った2019年、シューパロ湖では少雨によって貯水位が低下しました。
その結果、ダム運用開始後として初めて、三弦橋の一部が湖面上へ姿を現します。
北海道開発局の記録では、全国各地から見学者が訪れ、話題になったとされています。
ただし、ここでも「巨大な橋が丸ごと湖底から復活した」と考えるのは違います。
当時の見学会資料を見ると、水面上へ出ていたのは三弦橋の頂部など一部でした。
夕張市も現在、三弦橋を水位が下がった際に姿を現すことがある「幻の橋」として紹介しています。
つまり、
三弦橋は毎年見えるものではありません。
見えるかどうかはその年の降水量やダム水位に左右されます。
だからこそ、普段は湖の底にある橋の一部が水面へ戻ったとき、現在の湖と昔の風景が一瞬だけ重なって見えるのです。
鹿島の「町の輪郭」も、水位次第で戻ってくる
三弦橋ほど巨大な構造物でなくても、水位低下によって旧鹿島地区の痕跡が姿を見せることがあります。
夕張市の公式ガイドには、ダム湖の水位が下がった際、
旧国道の道路跡
や
住宅跡
など、かつての鹿島地区の痕跡を見ることができると記されています。
現在、一般にその景観を見る場所として案内されているのが鹿島眺望公園です。
国道452号沿いにあり、シューパロ湖と夕張岳を望むことができます。水位が下がれば旧道が見えることがあり、公園には旧夕張東高等学校や旧鹿島小中学校などの記念碑も移されています。
水の中から完全な町が戻ってくるわけではありません。
それでも、現在の道路から湖を眺め、その水面の下へ昔の道路が続いていたことを知ると、景色の見え方は大きく変わります。
現在は水。
昔は道。
その先には家があり、学校があり、人が暮らしていました。
一本の旧道が見えるだけで、「湖底に町がある」という言葉が急に現実になります。
旧鹿島地区は自由に歩ける場所ではない
水が減って昔の道路が姿を見せるなら、近くまで行って歩きたいと思う人もいるかもしれません。
しかし、旧鹿島地区を自由に探索することはできません。
夕張市は、旧鹿島地区で行われてきた「沈んだ街あるき」について、イベント開催日以外は立入禁止区域であり、同時にヒグマの生息域でもあると説明しています。
2025年度には9月20日に「沈んだ街あるき」が予定されていました。
ところが会場整備中、作業員から約30メートルの場所でヒグマの親子が確認されました。
大きな音を立てて草刈りをしている最中にもかかわらず近距離に現れたことから、安全確保が難しいと判断され、2025年度のイベントは中止されています。
2026年8月27日現在、夕張市から2026年度の「沈んだ街あるき」開催案内は確認できません。
したがって、旧鹿島地区を「水位が低ければ自由に入れる廃墟」のように扱うべきではありません。
普段は鹿島眺望公園など、公式に利用できる場所から見るのが基本です。
水位が低いからといって、必ず異常な渇水とは限らない
道路が水面から現れると、「ダムが干上がっているのでは」と感じることもあります。
しかし、ダムの水位変動そのものは異常ではありません。
夕張シューパロダムは、水をただ貯め続ける施設ではなく、洪水調節、農業、水道、発電、河川流量の維持など複数の目的に水を使います。
そのため、通常の管理でも水位は上下します。
一方で、三弦橋が水面上へ出た2019年については、北海道開発局が明確に少雨による貯水位低下を理由として挙げています。
つまり、
旧道が見えていることと、
三弦橋が大きく露出するほど水位が低下していることを、
すべて同じ「異常渇水」として扱うのも正確ではありません。
何が見えるかは、そのときの水位によって変わります。
鹿島がなくなった理由は「ダムだけ」ではない
現在、鹿島の市街地が地図から消え、その土地の多くが湖底にある直接的な理由は夕張シューパロダムです。
1998年には、ダム建設に伴って残っていた全戸が移転しました。
けれど、鹿島という生活圏が衰退していった原因まで、すべてダムに求めることはできません。
1973年に三菱大夕張炭鉱が閉山したあと、地区の人口は長い時間をかけて減っていきました。
1990年には594人。
1995年には471人。
そして1998年に全戸移転。
炭鉱閉山から最後の移転まで25年あります。
だから、
「ダムがなければ、今も2万人の町がここに存在した」
とは言えません。
一方、
「炭鉱閉山で衰退していたのだから、ダムによる移転は大したことではなかった」
とも言えません。
最後までそこを故郷として暮らしていた人々がいたからです。
鹿島は、炭鉱だけで消えた町でもなければ、ダムだけで消えた町でもありません。
産業の終わり、人口流出、ダム建設、全戸移転、そして湛水という複数の出来事が、長い時間の中で重なった場所です。
湖の底にあるのは、一度に消えた町ではない
シューパロ湖の水位が下がると、昔の道路や橋が現れる。
その景色だけを見ると、
「昔の町をそのまま湖へ沈めたのか」
と思うかもしれません。
実際の鹿島の歴史は、もっと長いものでした。
炭鉱とともに町が成長し、最盛期には最大約2万人が暮らした。
1958年には、最初のダムによって生まれる湖を渡るため三弦橋が造られた。
1962年には大夕張ダムが完成し、最初のシューパロ湖ができた。
1973年に三菱大夕張炭鉱が閉山すると、鹿島から人が減っていった。
1998年には、残っていた全戸が新しいダム建設に伴って移転した。
2014年、夕張シューパロダムの試験湛水が始まり、旧大夕張ダムや三弦橋は新しい湖の下へ入った。
そして2015年、巨大な新ダムが本格的な管理の時代へ移った。
その水面の下には、旧道や住宅跡、鉄道橋だけではなく、最初の大夕張ダムそのものまで残されています。
一つの町が突然消えたのではありません。
炭鉱とともに生まれ、産業の変化とともに人が減り、最後には地形そのものまで別の姿へ変わっていった。
現在のシューパロ湖は、その長い時間の一番新しい層です。
シューパロ湖の底には本当に町がありますか?
かつて鹿島地区として人々が暮らしていた土地の多くが、現在の夕張シューパロダムの貯水池内にあります。
ただし、完全な街並みがそのまま水中に保存されているわけではありません。
水位が下がった際には、旧国道の道路跡や住宅跡、橋梁など、昔の町の痕跡が見えることがあります。
鹿島地区には本当に2万人が暮らしていましたか?
夕張市は、炭鉱最盛期の鹿島地区について最大約2万人が暮らしたと案内しています。
ただし、これはダム建設時の人口ではありません。
国勢調査では1990年に594人、1995年には471人まで減っており、その後1998年にダム建設に伴って全戸が移転しました。
なぜ鹿島地区はなくなったのですか?
1973年の三菱大夕張炭鉱閉山後、地区人口が大きく減少しました。
その後、夕張シューパロダムの建設区域となり、1998年には残っていた全戸が移転。2014年から始まった試験湛水によって土地の水没が進みました。
水位が下がると何が見えますか?
夕張市は、旧国道の道路跡や住宅跡などが見える場合があると案内しています。
三弦橋も水位が大きく低下した際に一部が姿を現すことがありますが、毎年必ず見えるものではありません。
三弦橋は今も残っていますか?
残っています。
三弦橋は2014年4月26日に夕張シューパロダムの試験湛水によって水没しましたが、現地に残置されています。
2019年には少雨による水位低下で、ダム運用開始後として初めて一部が湖面上へ姿を現しました。
昔の大夕張ダムも湖底にあるのですか?
あります。
夕張シューパロダム建設時、旧大夕張ダム本体は周辺の山を安定させるため残され、露出する金物や設備類を撤去したうえで水没しました。
旧二股発電所も下部構造が残されています。
旧鹿島地区を歩くことはできますか?
通常は自由に立ち入ることができません。
過去には、水位低下時に管理された「沈んだ街あるき」が開催されてきましたが、イベント開催日以外は立入禁止区域です。
2025年度はヒグマ出没によって中止され、2026年8月27日現在、今年度の開催案内は確認できません。
まとめ|水が引いたとき戻ってくるのは「廃墟」ではなく、町の輪郭
シューパロ湖の水位が下がると、普段は水中にある道路や橋が姿を見せることがあります。
その光景だけを切り取れば、
「2万人もの人が暮らした町を、そのままダムへ沈めた」
ようにも見えます。
けれど、実際の歴史は違います。
鹿島は炭鉱とともに発展し、最盛期には最大約2万人が暮らしました。
1973年に三菱大夕張炭鉱が閉山すると、町から人が減っていきます。
1995年には471人。
そして1998年、残っていた全戸が夕張シューパロダム建設に伴って移転しました。
さらに16年後の2014年。
新しいダムの試験湛水が始まり、鹿島の土地や三弦橋、旧大夕張ダムなどが水面の下へ入っていきます。
それでも、すべてが消えたわけではありません。
旧道。
住宅があった場所。
鉄道橋。
そして、一世代前のダム。
いくつもの時代の痕跡が、現在もシューパロ湖の底に重なっています。
三弦橋の歴史は、その不思議さを象徴しています。
最初のダムが造らせた橋を、次のダムが沈めた。
そして、その最初のダム自身も今では二代目の湖の底にある。
シューパロ湖に沈んでいるのは、ある日突然消えた「水中都市」ではありません。
炭鉱とともに生まれ、閉山とともに人が減り、最後には地形そのものまで湖へ変わっていった町の時間です。
だから、水位が下がっても昔の街並みが完全な姿で戻るわけではありません。
戻ってくるのは道路や橋、基礎といった断片です。
けれど、その断片が見えるからこそ、
ここに道があり、
その先に家があり、
学校へ通う子どもがいて、
炭鉱へ向かう人がいたことが、突然現実味を持ちます。
今のシューパロ湖は、美しい大きな湖です。
しかし、その水面の下には現在とはまったく違う地図が重なっています。
次にシューパロ湖を眺めても、もうただの湖には見えないかもしれません。