- ファミコンで株取引できた?1988年通信アダプタから銀行・馬券まで
- まず結論|1988年に株・銀行・馬券が全部できたわけではない
- 正体は「ファミリーコンピュータ 通信アダプタセット」
- ファミコンは「インターネット」につながっていたわけではない
- テレビの前から本当に株を売買した「ファミコントレード」
- 次にファミコンへやって来たのは銀行だった
- 1991年4月、ファミコンで馬券まで買えるようになる
- なぜ証券会社や銀行は、わざわざゲーム機を使ったのか
- それでも「家庭の万能端末」にはならなかった
- ゲームそのものを通信させる構想もあった
- 通信アダプタだけではなかった、任天堂の通信実験
- 1988年の光景をもう一度想像してみる
- まとめ|ゲーム機だったファミコンを、家庭の通信端末へ変えようとした
- 主な確認資料
ファミコンで株取引できた?1988年通信アダプタから銀行・馬券まで

1988年2月10日。『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』が発売され、平日にもかかわらずゲームショップの前には長い行列ができた。
ファミコンといえば、まだそんな時代である。
ところが、それから約5か月後の7月15日、任天堂はかなり変わった周辺機器を発売している。
「ファミリーコンピュータ 通信アダプタセット」。
ファミコンを電話回線につなぎ、家庭のテレビを通信端末として使うための機械だった。
画面に映るのはマリオでも勇者でもない。証券情報を呼び出し、そのまま株式を売買する。後には銀行の残高照会や振込・振替へ用途が広がり、1991年には中央競馬の出馬表やオッズを確認しながら、いわゆる「馬券」まで自宅から購入できるようになった。
ただし、ここにはよくある誤解がある。
1988年に株・銀行・馬券のすべてが一斉に始まったわけではない。
しかも、ファミコンを使った株式取引の動き自体は、通信アダプタ発売前年の1987年までさかのぼる。
スマートフォンもWebブラウザも家庭向けインターネットも存在しない時代に、何が起きていたのか。ファミコンを「ゲーム機」ではなく、家庭に置かれた通信端末として見直してみる。
まず結論|1988年に株・銀行・馬券が全部できたわけではない
任天堂公式の「ファミコン年表」では、1988年の通信アダプタについて、株取引、銀行取引、中央競馬の勝馬投票券購入などに使えたことが紹介されている。
これだけ読むと、1988年7月15日の発売時点ですべてのサービスが揃っていたようにも見える。
しかし、当時資料や各事業者の記録を突き合わせると、実際には段階的に広がっていったことが分かる。
| 時期 | 確認できる動き | ポイント |
|---|---|---|
| 1987年 | 山一證券のファミコン利用による株式取引が当時の業界紙で報じられる。野村證券もシステム開発・実験を進める | 「ファミコンで株取引」の動きは通信アダプタ発売前年から存在 |
| 1988年7月15日 | 「ファミリーコンピュータ 通信アダプタセット」発売 | 任天堂公式で発売日を確認可能 |
| 1988年 | 野村證券の「ファミコントレード」が実用サービスとして展開 | 証券情報を見るだけでなく株式売買まで行えた |
| 1989年秋ごろ~ | ファミコンを含むホームバンキングが本格化 | 残高照会、振込、振替など |
| 1991年4月 | JRAの「PAT方式」試行開始 | ファミコン等から出馬表やオッズを確認し、勝馬投票券を購入 |
したがって、「1988年のファミコンで馬券を買えた」とする説明は正確ではない。
1988年は通信アダプタと株取引が大きく動いた年。その後に銀行が加わり、JRA-PATは1991年4月から――と分けて見る必要がある。
正体は「ファミリーコンピュータ 通信アダプタセット」
任天堂が1988年7月15日に発売した正式名称は、「ファミリーコンピュータ 通信アダプタセット」。
ファミコン本体のカセット差込口へ通信アダプタを取り付け、そのアダプタ側にサービス用の通信媒体を装着して使う構成だった。電話回線へつなぐモジュラーケーブルや、数字を入力しやすい通信コントローラも用意されている。
| 型番 | 名称 | 役割 |
|---|---|---|
| HVC-050 | 通信アダプタ | ファミコンを通信端末として利用する中心機器 |
| HVC-051 | 通信コントローラ | 通常の操作ボタンに加えてテンキー状の入力部を備える |
| HVC-053 | モジュラーケーブル | 電話回線との接続に使用 |
| HVC-054 | テレフォンスイッチ | 電話線を接続・分岐するための機器 |
現代のゲーム機でアプリを起動する感覚とは違う。
証券なら証券用、銀行なら銀行用、競馬ならJRA-PAT用というように、利用するサービスに対応した専用の通信カートリッジやICカードが必要だった。任天堂公式も、通信アダプタの利用には目的に応じた専用カートリッジが必要だったと説明している。
通信アダプタだけを買えば、好きな会社やサービスへ自由に接続できるわけではなかった。
テレビから証券会社まで、どうつながったのか
細部はサービスごとに異なるが、仕組みを大きく分けると次のようになる。

テレビは表示装置、ファミコンは操作と画面表示を担当する端末になる。
ゲームカセットを差して遊んでいた赤白の箱が、通信アダプタを付けることで金融サービスの入り口に変わった。
ファミコンは「インターネット」につながっていたわけではない
ここは現代から振り返ると最も誤解しやすい部分だ。
ファミコン通信を「1988年のインターネット」と説明するのは適切ではない。
現在ならスマートフォンやパソコンをインターネットへ接続し、Webサイトやアプリを開く。1980年代末のファミコン通信は、家庭の固定電話回線を使い、契約した個別サービス側の通信システムへ接続する仕組みだった。
ブラウザを開いて好きなページを行き来するものでもなければ、検索エンジンがあるわけでもない。
当時のゲーム情報そのものが雑誌やテレビ、口コミを中心に動いていた時代だったことは、ネットがなかった時代にゲーマーがどう情報を集めていたのかを追った記事でも詳しく整理している。
その時代に、ゲーム機の画面から遠隔地のコンピュータへ接続し、金融情報を呼び出して取引する仕組みが実用化されていた。その距離感で見る方が正確だ。
テレビの前から本当に株を売買した「ファミコントレード」
通信アダプタ史の中心にあるのが、野村證券の「ファミコントレード」だ。
ファミコン開発責任者だった上村雅之氏は、CESAの「ゲーム産業の系譜」で、野村證券とファミコンを端末にした通信ネットワークを共同構築した経緯を振り返っている。
そこで行われたのは、顧客への証券情報提供だけではない。
株式売買まで含まれていた。
「昔のファミコンで株価を見られた」というだけでも十分変わった話だが、実態はもう一歩先にあった。
野村・任天堂・NRIが組んだ
野村総合研究所(NRI)の社史資料によると、1987年には旧NCCが野村證券のリテール戦略の一環として、任天堂と共同でファミコントレードシステムを開発していた。
一方、任天堂やFMMCのネットワークサービス年表では、野村證券との「ファミコントレード」は1988年開始として整理されている。
この二つは矛盾するというより、1987年に開発・実験が進み、1988年にサービスとして本格展開されたと見るのが自然だろう。
上村氏自身も、当時の取り組みを証券業界における顧客管理IT化の実験という意味を持つものだったと振り返っている。
ただし「最初のファミコン株取引=野村」とも言い切れない
さらに歴史を一年前へ戻すと、話は少し複雑になる。
1987年9月1日発行の業界紙『ゲームマシン』には、山一證券が「サンラインF」でファミコンを使った株式取引を先行して行い、野村證券も参入予定とする記事が掲載されている。
つまり「1988年7月15日に通信アダプタが発売され、その日から初めてファミコンで株を買えるようになった」という歴史ではない。
ファミコンを家庭の証券端末として使おうとする動きは、少なくとも前年から始まっていた。
その流れの中で、任天堂自身が通信アダプタという商品を発売し、野村とのシステムが大きく展開していった――と捉える方が実態に近い。
野村だけのサービスでもなかった
『情報化白書1989』には、四大証券会社を皮切りに各社がファミコンを使った取引サービスを開始し、家庭のテレビとファミコンを使った株式・有価証券取引が広がりつつある様子が記録されている。
当時の四大証券は野村、大和、日興、山一。さらに現存する通信カードや資料には、新日本、岡三、和光、コスモ、山種、日本勧業角丸など複数社のファミコン向けサービスが確認できる。
ただし、各社で開始時期や機能、通信方式が完全に同じだったわけではない。現存カードの名前だけを根拠に「全社で同じ取引ができた」とまでは言えないため、ここは分けて考える必要がある。
月150万画面から750万画面へ
「珍しい周辺機器だったが、実際にはほとんど誰も使わなかった」と考えるのも早い。
『情報化白書1990』には、野村證券が提供したファミコントレードの1か月当たり参照画面数が掲載されている。
| 時点 | 1か月当たりの参照画面数 |
|---|---|
| 1988年12月 | 150万件 |
| 1989年3月 | 490万件 |
| 1989年6月 | 560万件 |
| 1989年9月 | 750万件 |
半年あまりで大きく増えている。
もちろん、この750万という数字は利用者数でも売買注文数でもない。1か月に参照された画面の件数であり、「750万人がファミコンで株を買っていた」と読むのは誤りだ。
それでも、実験用に数台置かれただけのシステムではなく、実際のサービスとして継続的に利用されていたことは見えてくる。
次にファミコンへやって来たのは銀行だった
証券の次に広がったのがホームバンキングである。
『情報化白書1989』では、家庭端末から残高照会や振込、振替を行うホームバンキングについて、都市銀行が1989年秋からの一斉稼働を目指して準備を進めていると記されている。
翌年の『情報化白書1990』になると、「ファミコンによるホームバンキングサービスも最近開始された」と記録されている。
そのため、1988年の通信アダプタ発売と銀行サービス開始を同じ日付として扱うのは避けた方がいい。大きな流れとしては、1988年の証券から、1989年秋以降の銀行へと用途が広がっていった。
残高を見るだけではなく、振込や振替も想定されていた
金融機関向け通信サービスの土台として知られるのが、現在のNTTデータが提供する「ANSER」だ。
ANSERは1981年からサービスが始まり、金融機関の窓口やATMで行っていた残高照会、入出金明細の確認、口座からの振込・振替などを、会社や家庭など離れた場所から利用できる仕組みを提供してきた。
ファミコン向けにも「ファミコンアンサー」が存在し、銀行ごとの専用通信媒体として、第一勧業銀行の「ハートの便利くん ミニ」、住友銀行の「ホームライン」、三和銀行の「三和パーソナルバンキング ペガサス」、近畿銀行の「きんきタスカル ミニ」などが確認できる。
ただし、個々の銀行について「何年何月何日に、どの機能まで使えた」と一次資料で同じ精度まで揃えられるわけではない。本稿ではカード名から機能を推測せず、当時資料で確認できるホームバンキング全体の動きと分けて扱っている。
「ネット銀行」「インターネットバンキング」ではない
ここでも現代の言葉をそのまま当てはめると分かりにくくなる。
銀行そのものがインターネット上に存在する現在の「ネット銀行」とは別物だし、Webブラウザやスマートフォンアプリを使う現在のインターネットバンキングとも仕組みが違う。
当時の呼び方に合わせるなら、ホームバンキングとするのが最も自然だ。
ただ、家庭の画面から金融機関へ接続し、残高を調べたり資金を動かしたりする体験だけを取り出せば、現在のオンライン金融サービスにつながる発想を見ることはできる。
1991年4月、ファミコンで馬券まで買えるようになる
通信アダプタの用途で最も知られているものの一つが、JRAの「PAT方式」だ。
JRA公式の「電話・インターネット発売50年の歩み」では、1991年4月に新しい在宅投票システム「PAT方式」の試行を開始したと記録されている。
ここは年がはっきりしている。
1988年ではなく、1991年4月。
JRAによる電話投票そのものはもっと古く、1976年には本格運用が始まっていた。PATで新しくなったのは、音声だけではなく、ファミコンなどのゲーム機やパソコン、専用端末を家庭の電話回線につなぎ、モニターを見ながら投票できるようになった点だった。
テレビで出馬表とオッズを見て、そのまま購入する
JRA公式は当時のPATについて、出馬表やオッズなどの情報を取得しながら馬券を購入できたと説明している。
ファミコンで利用する場合、体験はおおむね次のようになる。
ファミコンを起動する
↓
JRA-PAT用の通信媒体を使う
↓
電話回線からJRA側システムへ接続する
↓
出馬表やオッズをテレビ画面で確認する
↓
投票内容を入力する
↓
勝馬投票券を遠隔購入する
自宅のファミコンから注文したからといって、テレビの横から紙の馬券が出てくるわけではない。
JRAの正式な言い方では「勝馬投票券」の購入。一般的な言葉に置き換えれば、家にいながら馬券を買えた、ということになる。
現在の「ネット投票」とも違う
現在ならスマートフォンからJRAのインターネット投票へ入り、レースやオッズを確認して購入できる。
1991年のPATにも「画面を見ながら自宅から投票する」という似た体験はあったが、技術基盤は同じではない。
| 1991年ごろのファミコンPAT | 現在のスマートフォン | |
|---|---|---|
| 画面 | 家庭のテレビ | スマートフォン |
| 通信 | 固定電話回線と専用システム | インターネット |
| 利用手段 | 通信アダプタ+専用媒体 | Web・対応サービス |
| 共通する体験 | 家から画面で情報を確認し、そのまま遠隔地のシステムへ注文を送る | |
後のインターネット投票「IPAT」が本格化するのは2000年代に入ってからで、1991年のPATを「インターネット投票」と呼ぶのは正しくない。
一方で、このPAT系サービスは一時的な実験だけで終わったわけでもない。FMMCの研究資料では、JRA-PATの系統を1991年から2015年まで続いたサービスとして整理している。
通信アダプタを使った任天堂の取り組みをすべて「すぐ失敗した」で片付けられない理由の一つだ。
なぜ証券会社や銀行は、わざわざゲーム機を使ったのか
現代から見ると、ここが一番不思議かもしれない。
金融サービス用の専用端末を作るなら分かる。なぜ子どもがゲームを遊ぶファミコンだったのか。
答えの一部は、すでに家庭にあったものを組み合わせられる点にある。
テレビがある。固定電話がある。そして、多くの家庭にファミコンが入っている。
新しい情報端末を一から家庭へ普及させるのではなく、ファミコンに通信機能を足せば、テレビを表示装置として使える。
上村雅之氏も後年、ファミコンやスーパーファミコンが広く普及したことで、他業界からさまざまな共同プロジェクトの話が持ち込まれたと振り返っている。野村證券との通信ネットワークも、その一例だった。
当時の『情報化白書』が「家庭のテレビとファミコンを使った証券取引」を一つの情報化現象として取り上げていることからも、単なるゲーム会社の変わった実験ではなく、家庭用端末としての可能性が外部業界からも注目されていたことが分かる。
1980年代後半がどんなゲーム市場だったのかは、ファミコンから現在までのゲーム価格40年史と併せて見ると、当時の家庭用ゲーム機の立ち位置が分かりやすい。
それでも「家庭の万能端末」にはならなかった
これほど面白い仕組みなら、なぜそのまま普及して現在まで続かなかったのか。
「時代を先取りしすぎたから」の一言では説明しきれない。
まず、通信アダプタだけではサービスを利用できない。証券、銀行、競馬など目的に応じた専用媒体と契約が必要になる。
接続先も一つではない。現在のWebのように、同じブラウザから証券会社、銀行、競馬、ニュースへ自由に移動できる環境ではなかった。
サービスを増やすほど、加入手続きや専用ソフト、通信の仕組みも分かれていく。
さらに1990年代に入ると、家庭用パソコンやパソコン通信が発展し、その先にはインターネットが控えていた。通信端末としての選択肢自体が大きく変わっていく。
FMMCの研究報告も、任天堂が1980年代からネットワークサービスへ継続的に取り組んだ一方、それらが大きな売上や利益を生む事業として定着したわけではなかったと整理している。
それでも野村のファミコントレードでは参照画面数が増え、JRA-PATのように長期間残ったサービスもある。
通信アダプタ全体を「成功」「失敗」のどちらか一色に塗るより、用途によって結果が違ったと見る方が実態に近い。
ゲームそのものを通信させる構想もあった
では任天堂は、株や銀行のためだけにファミコン通信を考えていたのか。
そう単純でもない。
1980年代の段階から、ファミコンを通信へ利用する構想は存在していた。1990年の『情報化白書』も、証券取引とホームバンキングに続いて「オンライン・マルチプレーヤ・ゲーム」への期待に触れている。
ただし、ここでは実際に広く提供されたサービスと、試作・実験・将来構想を混同しない方がいい。
金融や競馬は実際の商用サービスとして確認できる。一方、現在のオンライン対戦ゲームのような遊びが、通信アダプタで一般家庭へ大規模に普及した事実は確認できない。
「1988年にはもうNintendo Switch Onlineの原型があった」とまで言ってしまうと、後から歴史を一直線につないだ話になってしまう。
通信アダプタだけではなかった、任天堂の通信実験

任天堂の通信への試みを長い時間軸で見ると、通信アダプタは孤立した一度きりの製品でもない。
1987年には、ディスクシステムのデータを任天堂へ送る「ディスクファックス」が使われた。『ゴルフ JAPANコース』などでは、ディスクに記録したスコアを送って大会へ参加する仕組みが用意されていた。
1990年には、ファミコン、通信アダプタ、電話回線を使った流通業者などの会員向け新作ゲーム評価サービス「スーパーマリオクラブ」が始まったとFMMCは整理している。
そしてファミコンの時代が終わっても、通信への試行は続く。
| 年 | サービス・機器 | 特徴 |
|---|---|---|
| 1987年 | ディスクファックス | ディスクに保存したデータを任天堂へ電送 |
| 1988年 | 通信アダプタ/ファミコントレード | 電話回線を利用した証券情報・株式売買 |
| 1990年 | スーパーマリオクラブ | 流通業者等の会員向け新作ゲーム評価サービス |
| 1991年 | JRA-PAT | 電話回線を利用した在宅競馬投票 |
| 1995年 | サテラビュー | スーパーファミコン向け衛星データ放送 |
| 1997年 | ニンテンドウパワー | ローソン店頭でゲームを書き換えるサービス |
| 2000年 | 64DD/ランドネット | NINTENDO64・64DDを利用したネットワークサービス |
64DDとランドネットをめぐる試行は、その後のゲーム開発にも別の形で痕跡を残した。たとえば『どうぶつの森』が64DD向け企画からNINTENDO64作品へ変わった経緯を見ると、通信や大容量記録を前提に考えられていた遊びが、ハードの事情によって別の形へ変化していったことが分かる。
もちろん、通信アダプタからサテラビュー、ランドネット、現在のNintendo Switchのオンラインサービスまでが、一つの技術としてそのまま受け継がれたわけではない。
ただ、家庭用ゲーム機と外部の情報・サービスをどう結び付けるかという試みを、任天堂が何度も形を変えながら続けてきたことは確認できる。
1988年の光景をもう一度想像してみる
1988年は『ドラゴンクエストIII』に行列ができた年だった。
同じ年には東京ドームが開場し、青函トンネルと瀬戸大橋が開通。セガからはメガドライブも登場した。
家庭向けインターネットはまだない。
新しいゲームの情報を知りたければ雑誌を待つ。誰かへ連絡するときは固定電話を使う。そんな時代だ。
その家のテレビの横に置いてある赤白のファミコンへ、電話線につながる通信アダプタを取り付ける。
いつものゲーム画面ではなく証券情報を表示する。
数字を確認し、コントローラを操作し、遠くにある証券会社のシステムへ注文を送る。
数年後には銀行の残高を確認し、競馬のオッズを見ながら勝馬投票券を買う用途にまで広がっていく。
現在のスマートフォンと同じ技術ではない。インターネットでもない。
それでも「家の画面から遠くのサービスへ接続し、情報を受け取り、その場で取引する」という体験だけを切り取れば、今では当たり前になった行動の一部が、1980年代末から1990年代初頭のファミコンですでに試されていた。
まとめ|ゲーム機だったファミコンを、家庭の通信端末へ変えようとした
ファミコン通信アダプタの歴史は、「昔のゲーム機に変な周辺機器があった」という話だけでは終わらない。
- ファミコンを使った株式取引の動きは1987年には始まっていた
- 任天堂の「ファミリーコンピュータ 通信アダプタセット」は1988年7月15日発売
- 野村のファミコントレードでは証券情報だけでなく株式売買まで行えた
- ホームバンキングは1989年秋ごろから本格化し、残高照会や振込・振替へ用途が広がった
- JRA-PATは1988年ではなく1991年4月に試行開始
- これらは現在のインターネットサービスとは異なり、固定電話回線と専用システムを利用していた
通信アダプタが家庭の万能情報端末として定着したわけではない。
サービスごとに専用媒体や契約が必要で、やがてパソコン通信やインターネットという別の仕組みが家庭へ入ってくる。
それでも、家庭にすでにあるテレビ、電話、ファミコンを組み合わせれば、新しい端末を一から置かなくても家庭を外部のコンピュータへつなげられる。
その発想から実際の株式売買まで動かし、銀行へ広げ、1991年には競馬投票にまで使った。
ファミコンという名前を聞いて、多くの人が思い浮かべるのはゲームだろう。
しかし1980年代の終わり、テレビの横にあったそのゲーム機は、一時期だけ別の顔を持っていた。
「ファミリーコンピュータ」を、本当に家庭のコンピュータとして使おうとした時代があった。
主な確認資料
本稿の年表・サービス内容は、任天堂「ファミコン年表」、日本中央競馬会「電話・インターネット発売50年の歩み」、CESA「ゲーム産業の系譜 上村雅之」、日本情報経済社会推進協会所蔵『情報化白書1989』『情報化白書1990』、野村総合研究所の社史・事業報告資料、NTTデータ「ANSER」、マルチメディア振興センター研究員レポート「コンソールゲーム産業におけるICT活用―任天堂の『ハイブリッドモデル』とネットワークサービスの分析―」、1987年9月1日発行『ゲームマシン』などを突き合わせて確認した。
通信アダプタの販売台数としてネット上で見られる「約13万台」といった数字や、個別銀行・証券会社の開始月日、通信速度、利用料金など、今回原典まで十分に確認できなかった数字は本文で断定していない。