サブカル文化史アーカイブ

大噴火で島民が避難。それでも約50年後、村は復活した――青ヶ島「還住」の歴史

目次
  1. 青ヶ島「還住」とは?1785年大噴火から約50年、人々はなぜ島へ戻ったのか
  2. 1785年、突然すべてが始まったわけではない
  3. 1785年の大噴火――生き残った人々は八丈島へ
  4. 実は「50年間ずっと無人島」ではなかった
  5. 八丈島でそのまま暮らせばよかったのでは?
  6. 1793年、20人が青ヶ島へ渡った
  7. 島へ戻れても、暮らし続けることができなかった
  8. 農作物を育てても、ネズミに食べられた
  9. 帰島を目指した三九郎も、青ヶ島には戻れなかった
  10. 1801年、いったん完全に失敗する
  11. それでも、なぜ青ヶ島へ戻ろうとしたのか
  12. 1817年、佐々木次郎太夫が新しい計画を始める
  13. 今度は「全員で帰る」計画ではなかった
  14. 港、道路、伐開、漁業――暮らす順番まで考えた
  15. 還住が成功したのは「根性が増したから」ではない
  16. 1824年なのか、1835年なのか――「還住の年」が資料によって違う
  17. 1835年、なぜ「検地」が大きな節目なのか
  18. 元の青ヶ島へ戻ったわけでもなかった
  19. 人が戻っただけではなく、村の経済も戻ってきた
  20. 「還住」という言葉が広く知られるのは、さらに約100年後
  21. 「還住」の記録そのものも、青ヶ島に残っている
  22. 現在の青ヶ島も、火山の上にある
  23. 青ヶ島の人々は、なぜ最後には戻ることに成功したのか
  24. まとめ|人々は50年間待ったのではなく、「戻る方法」を作り続けた

青ヶ島「還住」とは?1785年大噴火から約50年、人々はなぜ島へ戻ったのか

青ヶ島の還住をイメージした火山島と帆船のアイキャッチ画像

東京から南へ約358キロ。

八丈島からさらに約68キロ南へ進んだ海上に、青ヶ島があります。

面積は約6平方キロメートル。外輪山に囲まれた火山島で、その内側には池之沢火口があり、さらに中央には丸山火砕丘が立っています。

現在も人が暮らす東京都青ヶ島村ですが、この島では一度、住民がいなくなったことがありました。

北西側から見た現在の青ヶ島の全景
現在の青ヶ島を北西側から見た全景。海に囲まれた火山島には、1785年の大噴火と長い還住の歴史を経て、現在も人々が暮らしています。
出典:海上保安庁 海洋情報部「海域火山データベース 青ヶ島」/2025年5月14日撮影

原因は1785年の大噴火です。

当時の居住者は327人。気象庁は130~140人が死亡したと推定しており、生き残った人々は八丈島へ避難しました。青ヶ島から、生活する人がいなくなったのです。

それだけなら、「大噴火によって放棄された島」という歴史で終わっていても不思議ではありません。

ところが、そうはなりませんでした。

避難した人々は、噴火からわずか数年後にはもう青ヶ島を調べに戻っています。

人を残して復興を始める。

失敗する。

船を失う。

海を渡ろうとして行方不明者が出る。

紀州まで漂流し、病で亡くなる人も出る。

島で作物を育ててもネズミに食べられる。

最後には、島に残っていた人々も撤退しました。

それでも終わりません。

1817年、今度は計画そのものを作り直します。

人を島へ送り込むだけではなく、船、道路、船着き場、漁業、食料、役割分担まで考える。

そうして少しずつ人々が戻り、1835年には検地が行われました。現在の青ヶ島では、この長い復興の歴史が「還住(かんじゅう)」として記憶されています。

ここで、一つ大きな疑問が残ります。

なぜ人々は、これほど失敗を重ねても青ヶ島へ戻ろうとしたのでしょうか。

そして、もう一つ。

何度も失敗した帰島が、なぜ最後には成功したのでしょうか。

青ヶ島の還住を追うと、「故郷を諦めなかった」という言葉だけでは説明できない、かなり現実的な復興の姿が見えてきます。

1785年、突然すべてが始まったわけではない

青ヶ島の歴史では1785年の噴火が大きく取り上げられますが、火山活動はその年に突然始まったわけではありません。

気象庁の記録では、1780年には群発地震が起き、新しい火口が生まれ、多量の湯が湧きました。池の水位や温度が上昇し、植物も枯れています。

1781年にも噴火があり、畑が被害を受けました。

さらに1783年には、赤熱した噴石が降り、61戸が焼失。死者7人を出す噴火が起きています。その後1785年までの間には溶岩流も発生しました。

噴火以前、池之沢には大池と小池があり、その周辺は島民にとって重要な耕地でした。

人々は外輪山上の居住地からカルデラ内部へ降り、畑を耕していました。

しかし1780年代の活動によって、畑だけでなく桑や作物、飲み水まで影響を受けます。詳細な記録では、池の変化によって井戸が使えなくなり、食料だけでなく衣服の材料や年貢に関係する養蚕まで難しくなっていったことが伝えられています。

つまり、

火山が怖くなったから逃げた

というだけではありません。

島で人が生活するために必要な基盤そのものが、数年かけて壊れていったのです。

1785年の大噴火――生き残った人々は八丈島へ

そして天明5年。

気象庁では、現在の暦に換算した1785年4月18日から池之沢火口内で噴火が始まったと整理しています。

江戸時代の史料に出てくる天明5年3月10日とは旧暦・新暦換算の違いで、別々の噴火ではありません。

噴煙、赤熱した噴石、泥土などの噴出は5月頃まで続きました。

当時の青ヶ島には327人が暮らしていましたが、130~140人が死亡したと推定されています。生き残った島民は複数回に分かれて救出され、200人余りが八丈島へ避難しました。

青ヶ島村の現在の案内では、この出来事を大きくまとめて、

島民200人余りが八丈島へ逃れ、青ヶ島は無人島となった

と説明しています。

しかし、このあとを「そのまま50年間、誰も青ヶ島に住まなかった」と考えると、実際の歴史とはかなり違ってきます。

実は「50年間ずっと無人島」ではなかった

青ヶ島の還住については、「大噴火から約50年間無人島だった」と紹介されることがあります。

長い歴史を一言で説明するなら分かりやすい表現です。

けれど、詳細を追うと、人々は50年間じっと八丈島で待っていたわけではありません。

噴火後の早い段階から、何度も戻ろうとしています。

1789年。

噴火からわずか4年後、名主の三九郎ら12人が青ヶ島へ渡りました。

6月16日に八丈島を出て、現地を調査し、21日に無事帰還しています。

その報告をもとに八丈島側でも復興策が検討され、穀物の購入や開発準備のための援助が行われました。

当時は、島を再び使える土地へ戻していくことを「起返(おこしかえし)」などと呼んでいました。

つまり青ヶ島の人々は、

「いつか戻れればいい」と半世紀待ったのではありません。

かなり早い段階から、戻れるかどうかを実際に確かめています。

八丈島でそのまま暮らせばよかったのでは?

ここで現代の感覚なら、当然こう思います。

大噴火で故郷を失ったとしても、命を守るなら八丈島で暮らし続ける方がよかったのではないか。

しかし避難先の八丈島も、十分な土地と食料を持つ余裕のある場所ではありませんでした。

2012年の詳細な研究整理では、青ヶ島の避難民は知人宅などを頼って生活したものの衣食に窮し、八丈島でも労働力が余っていたため、独立した経済生活を築くことが難しかったとされています。

だからといって、

「八丈島の人々に迫害されたから青ヶ島へ戻った」

という単純な話でもありません。

八丈島側は避難民を受け入れ、役所も青ヶ島復興を支援しています。

象徴的なのが三根村の高村三右衛門です。

詳細記録では、三右衛門は500両を官府へ託し、その利子を避難民への食料や青ヶ島復興に充てる仕組みを提案しました。

年利1割2分で60両、そのうち50両を穀物に換えて青ヶ島の人々へ分配し、残りが出れば荒地の復興に使うという計画でした。

還住は、

「故郷への思いだけで何十年も耐えた物語」

ではありません。

資金も必要でした。

八丈島側の協力も必要でした。

そして何より、青ヶ島で本当に暮らせる状態を作る必要がありました。

1793年、20人が青ヶ島へ渡った

最初の大きな復興計画が動いたのは1793年です。

7月12日、三九郎は19人を率い、穀物や農具を積んで青ヶ島へ渡りました。

合計20人です。

小屋を建て、12人を島に残しました。

今度は単なる調査ではありません。

青ヶ島に人を残して、生活を再開しようとする本格的な試みでした。

大噴火から8年。

ここだけ見ても、「50年間誰も住まなかった」というイメージとはかなり違います。

ところが、この復興はうまくいきません。

島へ戻れても、暮らし続けることができなかった

島に残った人々には、まず種や食料が足りませんでした。

翌月には5人が八丈島へ向かいます。

しかし、その5人は海上で行方不明になりました。

翌1794年には、二艘の船で食料を届けることには成功します。

ところが到着後に時化に遭い、船を失いました。

帰るための船がなくなった一行は、残されていた資材を掘り出し、農具まで解体して釘として使い、小舟を造ります。

13人が八丈島へ戻れたのは6月でした。

これが青ヶ島の復興を難しくしていた最大の問題です。

島に上陸できれば終わりではありません。

食べ物がいる。

水がいる。

家がいる。

畑がいる。

農具がいる。

そして次の船がいる。

島で暮らすためには、それらすべてがつながっていなければなりません。

現在なら「約70キロ」と聞けば、それほど遠く感じないかもしれません。

しかし江戸時代の海上交通では、その70キロを狙いどおり往復できるとは限りませんでした。

青ヶ島村自身も、古い記録に海難事故が繰り返し登場することから、当時の海上交通の困難さを指摘しています。

農作物を育てても、ネズミに食べられた

さらに島では、農業そのものも簡単には再開できませんでした。

残った人々が作物を育てると、最初はよく育ちました。

ところが実りの時期になると、多数の野ネズミに食い荒らされます。

人々はネズミ狩りを行いましたが被害は続き、わずかなイモ類などで命をつないだことが記録されています。

ここで重要なのは、

火山活動が収まれば、すぐ元の暮らしへ戻れるわけではなかった

ことです。

長期間人の管理から離れた土地を耕し直し、食料生産を安定させること自体が難しい。

しかも外部から物資を届けようとしても、船が着く保証がない。

青ヶ島への帰還で必要だったのは「勇気」だけではありませんでした。

帰島を目指した三九郎も、青ヶ島には戻れなかった

1796年4月、青ヶ島へ食料を運ぼうとした船は房総半島へ流されました。

同月29日には、三九郎を含む男女14人が再び八丈島から青ヶ島を目指します。

しかし、この船も青ヶ島には着きません。

流された先は紀州熊野でした。

そして紀州での滞在中に、11人が病気で亡くなります。

その中には三九郎も含まれていました。

海で11人が溺死した、という話ではありません。

青ヶ島への帰島を目指した船が大きく航路を外れ、その後の滞在中に病で亡くなったのです。

三九郎の一行には家財道具をそろえた家族もおり、八丈島で生まれた子どももいたと伝えられています。

単なる調査航海ではなく、島へ移り住むつもりだったことがうかがえます。

それでも、帰島の試みは終わりません。

1799年にも男女33人ほどが穀物を積んで出航します。

この船も海路を外れ、紀州まで漂流しました。

幸い、この一行は翌年に江戸を経て八丈島へ戻ることができました。

1801年、いったん完全に失敗する

それでも青ヶ島には、少人数の人々が残っていました。

しかし1801年6月8日。

最後まで島で耐えていた7人も、焼け残りの資材で小舟を造って八丈島へ引き揚げます。

ここで最初の大きな復興計画は、いったん完全に行き詰まりました。

そしてこのあと、約16年間、青ヶ島には再び居住者がいない状態が続きます。

この時点で、大噴火から16年が過ぎています。

人を送った。

物資を送った。

資金も使った。

船も失った。

人も亡くなった。

島で何年も耐えた人々さえ、最後には撤退しました。

ここで青ヶ島を諦めても、何も不思議ではありません。

それでも、避難した人々とその子孫は青ヶ島を手放しませんでした。

青ヶ島の大噴火から現地調査、第一次復興、撤退、再挑戦、1824年から1835年の共同体再建までを示した年表図
青ヶ島の還住は、1785年の大噴火から1835年まで50年間ずっと無人だったわけではありません。調査、第一次復興、撤退、再挑戦を経て、段階的に共同体が再建されていきました。

それでも、なぜ青ヶ島へ戻ろうとしたのか

一つの理由だけで説明することはできません。

故郷だから。

もちろん、それは大きかったはずです。

しかし、それだけでは50年近い復興を説明しきれません。

八丈島では、青ヶ島の避難民が独立した生活基盤を持つことが難しかった。

青ヶ島には、自分たちが暮らしていた土地が残っている。

八丈島側や役所から復興を支える仕組みもあった。

そして時間が経つにつれて、別の問題も生まれます。

1817年には、青ヶ島から避難した人々とその子孫は177人まで減っていたとする記録があります。

避難時に青ヶ島で暮らしたことのある人々も、当然年を重ねていました。

時間が経てば経つほど、「島へ帰りたい」という記憶だけでなく、

島のどこで水を得たのか。
どこを耕したのか。
どこへ船を着けたのか。
どのように暮らしていたのか。

そうした経験を持つ人まで少なくなっていきます。

言い換えれば、故郷の記憶にも期限があったのかもしれません。

これは史料にそのまま書かれた言葉ではありません。

しかし、世代交代が進む中で再び還住願いが出されている事実を見ると、時間そのものが復興の条件になっていたことは見逃せません。

1817年、佐々木次郎太夫が新しい計画を始める

1817年。

佐々木次郎太夫伊信が中心となり、青ヶ島復興が再び本格的に動き始めます。

青ヶ島村教育委員会や東京都八丈支庁の資料では、次郎太夫は1767年4月8日生まれとされています。

後に柳田國男の著作などを通して「青ヶ島のモーゼ」と呼ばれるようになる人物です。

ただし、還住を次郎太夫一人の英雄物語にしてしまうと、実際の姿を見失います。

それ以前には三九郎がいました。

高村三右衛門の基金がありました。

八丈島の役人による支援もありました。

そして、実際に島へ渡って道路を直し、船を動かし、畑を耕した多くの人々がいました。

次郎太夫が重要なのは、一人で全員を救ったからではありません。

過去の失敗を踏まえて、復興のやり方そのものを変えたことです。

今度は「全員で帰る」計画ではなかった

1817年当時、青ヶ島関係者は177人。

次郎太夫の計画では、そこからまず27人を選びました。

そして27人を、

7人=八丈島と青ヶ島を結ぶ交通担当

20人=青ヶ島へ渡って建設を進める先発隊

に分けます。

ここが、それまでの帰島とは大きく違います。

全員を一度に船へ乗せ、

「とにかく故郷へ帰ろう」

ではありません。

最初から、島と八丈島の往来を維持する人間を残しています。

島で働く人と、島を外から支える人を分けているのです。

さらに船も大小2艘を新造する計画でした。

過去に何度も交通が途絶えた経験を考えれば、偶然とは思えない設計です。

港、道路、伐開、漁業――暮らす順番まで考えた

次郎太夫たちは、先発隊を送るだけでもありませんでした。

仕事ごとに責任者を置いています。

浜を整備する浜方普請棟梁

道路を直す道普請棟梁

土地を切り開く伐開棟梁

そして漁棟梁

農作物が十分に採れるようになるまで魚を食料として利用し、魚油を灯火に使う。

さらに鰹節を備蓄して管理する仕組みまで設けました。

ここに、青ヶ島の還住が最後に成功した理由が見えてきます。

最初の復興では、

人を島へ戻そうとした。

1817年以降の復興では、

人が島で暮らし続けられる仕組みを先に作ろうとした。

船がある。

港が使える。

道路がある。

食料がある。

漁ができる。

農業が実るまで耐えられる。

誰が何を担当するかも決まっている。

帰島が「気持ち」から「計画」へ変わったのです。

還住が成功したのは「根性が増したから」ではない

何度失敗しても青ヶ島を諦めなかったこと自体は、確かに印象的です。

しかし、

「昔の人は根性があったから成功した」

では、最も面白いところを落としてしまいます。

1790年代の人々にも、帰りたい気持ちはありました。

三九郎たちは命をかけて何度も海へ出ています。

問題は気持ちの強さではありません。

生活を継続できる仕組みが足りなかった。

そこを1817年以降の計画は変えました。

帰島者の人数を絞る。

交通を専任する。

港と道路を優先する。

農業だけに頼らず漁業を組み込む。

備蓄を管理する。

役割を決める。

人を少しずつ戻す。

約50年間の試行錯誤で、

「島へ行く方法」から「村を再び作る方法」へ変わった。

そこに還住成功の大きな違いがあります。

1824年なのか、1835年なのか――「還住の年」が資料によって違う

青ヶ島の歴史を調べると、還住した年について複数の数字が出てきます。

1824年。

1834年。

1835年。

一見すると、どれかが間違っているように見えます。

しかし、それぞれが違う節目を指している可能性があります。

東京都八丈支庁の資料では、次郎太夫が1824年に全島民の還住を成功させたと説明し、1835年には年貢を納められるほど復興したとしています。

一方、柳田國男『青ヶ島還住記』を中心に整理した2012年の研究では、1834年に青ヶ島人すべてが故郷へ戻り、1835年に検地を受けたとしています。

そして現在の青ヶ島村公式サイトは、大きな歴史の区切りとして1835年に還住を果たしたと案内しています。

そのため、

「1835年のある日、全住民が50年ぶりに一斉帰島した」

と書くのは正確ではありません。

帰島は1817年以降、段階的に進んでいました。

1820年代には多くの人がすでに島で暮らすようになり、その後も土地や生活基盤の再建が続く。

そして1835年には検地が行われました。

今回の歴史を理解するうえでは、

人が戻ったことと、
村として再び成立したこと

を分けて考えると分かりやすくなります。

1835年、なぜ「検地」が大きな節目なのか

島へ人が戻っただけなら「帰島」です。

しかし、一つの村として暮らし続けるには、それだけでは足りません。

土地を使う。

畑を作る。

生産する。

行政の対象になる。

年貢を納める。

船を維持する。

水を確保する。

寺社を再建する。

そうした社会の仕組みまで戻って、初めて共同体は継続できます。

1835年の検地後、青ヶ島の記録では男133人、女108人、計241人が暮らしていました。

青ヶ島村が1835年を「約半世紀後の還住」の象徴として扱う理由も、単純に最後の一人が帰ってきた年というより、

青ヶ島が再び一つの生活・生産の場所として成立した大きな節目

と考えると理解しやすくなります。

元の青ヶ島へ戻ったわけでもなかった

還住後の人々は、噴火前の暮らしをそのまま再現したわけではありません。

そもそも地形が変わっています。

かつて池之沢にあった大池と小池は、18世紀の噴火活動による噴出物や溶岩によって埋められました。現在の池之沢火口内部には丸山火砕丘があります。

失われた環境を、そのまま元へ戻すことはできませんでした。

だから暮らしも作り直します。

還住後の記録では神社や寺を再建し、水は湧水だけに頼らず雨水を受けて使う設備を整え、新たに塩を焼く設備も設けたとされています。

これは「復旧」というより「再建」に近いものです。

噴火前と同じ青ヶ島へ戻ったのではなく、変わってしまった青ヶ島で暮らせる方法を新しく作った。

還住という歴史の本質は、ここにもあります。

人が戻っただけではなく、村の経済も戻ってきた

その後、青ヶ島の復興はさらに進みます。

1839年には、60年以上途絶えていた絹の貢納が再開しました。

記録上、島が再び生産活動を行い、外部との制度的な関係まで戻していったことが分かります。

1844年には、次郎太夫も功績を認められました。

青ヶ島村教育委員会や東京都八丈支庁の資料では、1844年7月26日、公費補助に大きく頼らず島の再開発を成し遂げた功績によって、一代限りの苗字を許され、白銀10枚を与えられたとされています。

ただ、それを「次郎太夫一人が島を救った証明」と見る必要はありません。

そこへ至るまでには、半世紀近く前から復興に挑んだ人々と、支援した人々の積み重ねがありました。

「還住」という言葉が広く知られるのは、さらに約100年後

1785年に避難した人々が、当時から自分たちの歴史を公式に「還住」と呼んでいた、と考えるのも少し違います。

島を復興することについては「起返」「起し返し」などの表現が史料に現れます。

現在、青ヶ島のこの歴史を象徴する言葉になっている「還住」は、1933年に柳田國男が『青ヶ島還住記』を雑誌『嶋』へ発表したことで広く定着していきました。

『青ヶ島還住記』は1933年8月から10月まで連載され、のちに『島の人生』などへ収録されています。

ただし、「還住」という日本語そのものを柳田が発明したわけではありません。

柳田以前から存在した言葉を、青ヶ島の長い帰還・復興史を表す象徴的な言葉として用いた、と考える方が正確です。

いまでは青ヶ島村の案内にも「還住像」が登場し、次郎太夫の屋敷跡などとともに、この歴史が島の文化として残されています。

「還住」の記録そのものも、青ヶ島に残っている

この歴史が単なる後世の伝説ではないことも重要です。

青ヶ島村教育委員会には、旧名主・佐々木家から伝わった「旧名主・佐々木家文書」が保存されています。

その中には、

『青ヶ島諸覚』
『八丈島小島青ヶ島年代記』
『青ヶ島大概帳』

という3冊があります。

特に『青ヶ島諸覚』は1759年から1840年までの届や願書などを収めており、教育委員会は青ヶ島の還住史を記した重要な史料と位置づけています。

つまり、青ヶ島の還住は「諦めなかった島民の伝説」が後から作られたものではありません。

避難。

復興願い。

物資。

土地。

行政。

そうした現実的な問題に向き合った記録が、現在まで残されています。

現在の青ヶ島も、火山の上にある

そして、青ヶ島が火山島であることは過去の話ではありません。

気象庁は現在も青ヶ島を常時観測火山として監視しています。

2026年9月1日現在、噴火警戒レベルは1「活火山であることに留意」です。最新の定期的な火山活動解説資料として掲載されているのは2026年7月分です。

もちろん、これは「青ヶ島が今にも噴火する」という意味ではありません。

レベル1は現在の観測に基づく火山情報であり、1785年の歴史を現在の危険へ直結させる必要はありません。

ただ、現在の青ヶ島の景色そのものが火山活動によって作られていることは確かです。

約240年前、人々はその火山によって島を離れました。

そして長い年月をかけて、その変わってしまった土地にもう一度暮らしを作りました。

青ヶ島の人々は、なぜ最後には戻ることに成功したのか

最初の問いへ戻ります。

なぜ人々は青ヶ島へ戻ったのでしょうか。

故郷だったから。

自分たちの土地だったから。

八丈島で独立した生活基盤を作ることが難しかったから。

復興を支える人や資金があったから。

青ヶ島で暮らした経験を持つ世代が残っているうちに再建したかったから。

おそらく、どれか一つではありません。

では、なぜ最後には成功したのでしょうか。

こちらは、歴史の流れを見るともう少しはっきりしています。

戻りたい気持ちが急に強くなったからではありません。

1790年代の人々にも十分すぎるほど強い帰還の意思がありました。

それでも失敗しました。

違ったのは、戻り方です。

人をただ送るのではなく、

船を用意する。

交通を担当する人を残す。

先発隊を送る。

浜を直す。

道路を直す。

土地を切り開く。

漁業で食料を補う。

備蓄を管理する。

農業が成立するまで耐えられる仕組みを作る。

そして全員を一気に戻さず、段階的に共同体を再建していく。

約半世紀の失敗の中で、復興は少しずつ「帰る計画」から「暮らせる村を作る計画」へ変わっていったのです。

青ヶ島還住における最初の復興と成功した復興の違いを比較した図解
青ヶ島の還住で最初の復興が行き詰まったのは、島へ戻れても暮らしを続ける仕組みが足りなかったためです。1817年以降の復興では、交通担当、先発隊、港、道路、漁業、備蓄などを組み込み、段階的に共同体を再建していきました。

まとめ|人々は50年間待ったのではなく、「戻る方法」を作り続けた

1785年の大噴火で、青ヶ島から居住者がいなくなりました。

しかし、人々は約50年後まで何もせず待っていたわけではありません。

わずか4年後には青ヶ島を調査しています。

1793年には20人が渡り、12人を島へ残して復興を始めました。

しかし食料が足りない。

ネズミに作物を食べられる。

船が失われる。

海を渡れば、別の土地まで流される。

人も亡くなる。

1801年には、最後に残った7人まで八丈島へ撤退しました。

そこまで失敗しても、青ヶ島の歴史は終わりませんでした。

1817年。

次郎太夫らは、これまでとは違う方法を考えます。

交通担当と先発隊を分ける。

港を直す。

道路を直す。

漁業を組み込む。

食料を備蓄する。

役割を決める。

そして少しずつ人を戻す。

その先に、1835年の検地があります。

青ヶ島の還住を「故郷を愛した人々の奇跡」とだけ呼ぶと、少し大切なものを取りこぼします。

もちろん、何十年も故郷を諦めなかった思いはありました。

でも、思いだけでは島で暮らせません。

「島へ帰ること」と、「島で再び暮らし続けられること」は違った。

最初の人々は、何度も島へ帰ろうとしました。

最後に成功した人々は、島へ帰るだけではなく、

船、道、食料、生業、組織まで含めて、一つの村を作り直しました。

だから青ヶ島の人々は、

50年間ただ帰れる日を待ったのではありません。

失敗するたびに次の方法を考え、

約50年かけて「戻る方法」を作り続けた。

その長い過程の最後で、

「帰島」はようやく、

「還住」になったのです。

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