- 中ノ鳥島はなぜ日本領になった?後に「不存在」とされた幻の島を公文書から追う
- 中ノ鳥島とは?1907年に「発見した」と届け出られた島
- 面積、燐鉱、鳥、地名まであった――詳しすぎる発見届
- 中ノ鳥島より先に「ガンジス島」という疑存島があった
- 海軍水路部にも「島がある」と裏づける十分な資料はなかった
- それでも、なぜ中ノ鳥島を日本領として扱う必要があったのか
- 法制局も「当然に日本領」と考えたわけではなかった
- 1908年、「中ノ鳥島」という島が制度の中に生まれる
- 5年後、26人が「日本の島」を開拓するため本当に出航した
- 27日間探しても、海しかなかった
- 海軍も探した。それでも中ノ鳥島は見つからなかった
- なぜ「見つからない」と分かっても名前は残り続けたのか
- 1943年、まず機密水路図誌から消えた
- 1946年、「精測の結果、存在していない」
- それでも1946年1月のGHQ文書には「中ノ鳥島」が残っていた
- 中ノ鳥島は本当に海へ沈んだのか?
- 山田禎三郎は嘘をついていたのか?
- 1998年、政府が答えた「中ノ鳥島は今どこに?」
- 中ノ鳥島で一番不思議なのは「島がなかったこと」だけではない
- まとめ|地図に島があるから、そこに島があるとは限らない
- FAQ
中ノ鳥島はなぜ日本領になった?後に「不存在」とされた幻の島を公文書から追う

1909年3月29日に公布された明治42年勅令第54号。
そこには、東京府小笠原島庁の管轄区域として、
「小笠原島、南鳥島、中ノ鳥島」
と記されています。
南鳥島は、現在も存在する日本最東端の島です。
ところが、その隣に並ぶ「中ノ鳥島」は違います。
現在、そんな島は確認されていません。
ネット上で後から生まれた都市伝説ではありません。国の制度上、本当に一つの島として名前が記されたことがあります。
では、存在しない島を昔の日本政府がうっかり日本領にしてしまったのでしょうか。
話は、それほど単純ではありません。
1908年の政府文書をたどると、海軍水路部にも島の実在を裏づける十分な資料がなかったこと、以前から海図にあった「ガンジス島」と発見届の位置が一致していなかったことを政府側も把握していました。
それでも行政手続きは進み、島には「中ノ鳥島」という名前が与えられます。
さらに5年後には、26人がその島を本当に開拓するつもりで船に乗り込みました。
しかし、27日間探しても島は見つかりませんでした。
中ノ鳥島で最も不思議なのは、「島が消えた」ことではないのかもしれません。
そもそも存在を確定できていなかった島が、なぜ一度は現実の制度の中で「日本の島」になったのでしょうか。
中ノ鳥島とは?1907年に「発見した」と届け出られた島
始まりは1907年8月です。
東京市小石川区に住んでいた山田禎三郎という人物が、太平洋上で新しい島を発見し、探検したと後に報告しました。
翌1908年4月28日、山田は「小笠原島所属島嶼発見届」を小笠原島庁へ提出します。
国立公文書館には、この一連の行政文書が『公文類聚』として現在も残っています。アジア歴史資料センターでは、件名そのものを「東京府小笠原島ヲ距ル五百六十哩ノ位置ニ在ル無人島ヲ中ノ鳥島ト名ケ東京府小笠原島庁ノ所管トス」と確認できます。
山田が報告した位置は、
北緯30度05分・東経154度02分。
太平洋の真ん中です。
ここで注意したいのは、「山田が島を発見した」と確定しているわけではないことです。
確認できるのは、
山田が、その位置で島を発見・探検したと届け出た
という事実です。
面積、燐鉱、鳥、地名まであった――詳しすぎる発見届
山田の報告は、「遠くに島影を見た」という程度ではありませんでした。
島は小笠原から560哩、周囲1里25町、面積64万3700坪。
現在の単位に直せば、面積はおよそ2.13平方キロメートルです。
さらに、島の約8割に燐鉱が堆積し、その厚さは平均約6尺、燐酸石灰を20~25%含むと記しました。
植物についてはタコノキやカヤ。
自然に湧く飲料水はない。
鳥については、当時「馬鹿鳥」と呼ばれたアホウドリを数百万羽としています。
そして島内を、
日向平、真鳥山、西向平
の三つに分け、船着き場を**「西港」**と名付けました。
縮尺6000分の1の島の図まで添えています。
これだけ読めば、
「そこまで詳しく書いてあるなら、本当に上陸したのでは?」
と思いたくなります。
しかし、この報告を取り巻く事情を追うと、すぐに話がおかしくなってきます。
中ノ鳥島より先に「ガンジス島」という疑存島があった
中ノ鳥島は、何もない太平洋上へ突然現れた名前ではありません。
その付近には以前から、Ganges Island――ガンジス島という島が海図や地図に記されていました。
ただし、存在が確実な島ではありません。
1900年の英国水路誌では北緯30度47分・東経154度15分付近とされながら、正確な位置は確実ではないとされていました。
日本の『日本水路誌』にも、小笠原の人々が何度か探したものの発見できず、海図上ではP.D.――位置が疑わしいことを示す扱いになっていたと記されています。
こうした島は「疑存島」と呼ばれます。
昔の航海では、島があると報告されて一度は海図へ載ったものの、その後の航海や測量で見つからず、存在そのものが疑われる例がありました。
測位技術も現在とは大きく違います。
人工衛星もGPSもなく、広大な外洋で島を確認するには船で実際に近くまで行く必要がありました。
だからといって「昔の人は地図が雑だった」で終わる話でもありません。
中ノ鳥島の場合、政府側も最初からその不確かさに触れていたからです。
海軍水路部にも「島がある」と裏づける十分な資料はなかった
山田の発見届を受け、内務省は1908年5月13日、海軍水路部へ新しい島について照会しました。
水路部の回答は、意外なものでした。
新島について十分な資料は持っていない。
ただし、その位置から考えれば、以前から知られていたガンジス島に相当するのではないか――という内容です。
つまり、
専門機関が島の存在を確認したから、政府が中ノ鳥島を日本領として処理した
わけではありません。
実在を十分に裏づけられない状態のまま、行政手続きが進んでいます。
しかも、位置にも問題がありました。
山田の報告は北緯30度05分・東経154度02分。
水路誌上のガンジス島は北緯30度47分・東経154度15分付近。
かなり離れています。
政府文書でも、この位置の違いは認識されていました。
つまり当時の政府は、
「場所まで確定した島」を受け入れたわけではありません。
それでも、なぜ中ノ鳥島を日本領として扱う必要があったのか
ここからが中ノ鳥島の核心です。
山田は発見届を提出しただけではありませんでした。
すでに東京鉱山監督署へ燐鉱採掘を出願し、小笠原島庁には全島の借用と捕鳥の許可も申請していました。
これを受けて東京府知事は内務大臣へ、新島の行政区画を至急決めるよう上申しています。
島がある。
そこに燐鉱がある。
鳥が大量にいる。
開発したいという人間がいる。
そうなると役所には、別の問題が生まれます。
「その申請を、どこの行政機関が処理するのか」
です。
存在確認だけを延々と待っている間にも、採掘や借地の申請は動き始めていました。

明治期にはアホウドリの羽毛や鳥類資源、鳥糞由来のグアノや燐鉱などが大きな経済価値を持ち、太平洋上の無人島を探し、利用権や借地権を先に確保しようとする動きが広がっていました。
地理学者の平岡昭利氏は、この時代の無人島進出を、アホウドリなどの資源を求めた「バード・ラッシュ」ともいえる動きとして分析しています。
疑存島でさえ、「本当にあるか」より先に、利用や借地の権利を確保しようと願書が提出されることがありました。
中ノ鳥島は、そうした時代の空気の中に現れた島だったのです。
法制局も「当然に日本領」と考えたわけではなかった
1908年7月、政府内部では法的な扱いも検討されました。
中ノ鳥島とされた島は既存の日本領から遠く離れている。
位置だけを理由に、当然に日本領とするのは簡単ではない。
一方で、他国が占有している事実は確認されず、日本人である山田が発見・踏査したと届け出ている。
しかも燐鉱採掘や捕鳥事業を始めようとしている。
法制局は、こうした行為を当時の国際法上の**「占領ノ事実」**として整理し、日本所属として扱う方向へ進めました。
ここで現在の国際法や現代の領土問題をそのまま重ねる必要はありません。
重要なのは、
1908年の政府が、どのような論理でこの不確かな島を行政上処理したのか
という点です。
「存在を100%確認できたから領土にした」のではありませんでした。
1908年、「中ノ鳥島」という島が制度の中に生まれる
1908年7月22日、閣議決定によって島を**「中ノ鳥島」**と名付け、東京府小笠原島庁の所管とすることが決まりました。
その後、東京府告示によって行政上の所属も示されます。
そして翌1909年3月29日。
明治42年勅令第54号で、小笠原島庁の管轄区域に、
「小笠原島、南鳥島、中ノ鳥島」
と明記されました。
ここまで来ると、単に「誰かが地図へ間違った点を一つ打った」という話ではありません。
中ノ鳥島は、
行政文書の中で一つの島として制度化された
ことになります。
しかも名前はすぐには消えません。
1940年の勅令にも中ノ鳥島は現れます。
島そのものは見つからないのに、制度上の名前は生き続けました。
5年後、26人が「日本の島」を開拓するため本当に出航した
中ノ鳥島が日本領として扱われるようになってから5年後の1913年。
今度は、本当に島を開拓する計画が動き出します。
11月15日、帆船吉岡丸が東京を出港しました。
乗っていたのは26人。
地理学者の志賀重昂も計画に関わり、出航前には、島での水の確保や野菜栽培、生活の方法まで説明されていました。
単なる「島が存在するか見に行こう」という調査航海ではありません。
彼らにとっては、
すでに日本領として扱われている島を、これから開拓する
航海でした。
公文書には島名がある。
位置も書かれている。
島の地図もある。
西港という上陸場所まで名前がついている。
そこへ26人が向かいました。
ところが、指定された海域に着いても島がありません。
27日間探しても、海しかなかった
吉岡丸は八丈島付近で暴風に遭いながら父島へ到着し、その後、中ノ鳥島があるとされた海域へ向かいました。
1913年12月14日ごろから捜索を開始。
平岡氏が当時新聞をもとに整理した記録では、広い範囲を27日間探しています。
それでも島は見つかりませんでした。
吉岡丸が東京へ戻ったのは1914年3月30日です。
ここは余計な演出を加える必要がありません。
島の輪郭が描かれた図面がある。
面積も地名も資源も書いてある。
政府文書にも島名がある。
そこへ本当に人が向かった。
しかし、海しかなかった。
その事実だけで十分に奇妙です。

海軍も探した。それでも中ノ鳥島は見つからなかった
吉岡丸の失敗だけで「島は絶対に存在しない」と確定したわけではありません。
位置が間違っている可能性もあり、民間の開拓航海と国家機関による測量も同じではありません。
そこで、その後も中ノ鳥島の調査は続きました。
1927年9月には、海軍測量艦**「満州」**が10日間にわたって調査を行いました。
それでも存在を確認できませんでした。
当時の東京朝日新聞は、「影も形もない 二つの孤島」という見出しで報じています。
これでかなり状況は固まってきます。
一人の民間人が見つけられなかったのではない。
開拓船が探してもない。
海軍が調べてもない。
それでも、中ノ鳥島という名前はすぐには消えませんでした。
なぜ「見つからない」と分かっても名前は残り続けたのか
ここも中ノ鳥島の面白いところです。
現実世界で島が見つからないことと、すでに作られた行政文書や海図から島名を消すことは同じ作業ではありません。
一度、
中ノ鳥島
という名前が、
海図、行政区分、勅令、軍事資料へ入ってしまうと、それぞれの資料が同時に自動修正されるわけではありません。
しかも「見つからない」だけでは、
座標が違うのか。
まだ捜索範囲外にあるのか。
測量が足りないのか。
そもそも存在しないのか。
この区別をつける必要があります。
そのため、中ノ鳥島は「ないらしい」と考えられるようになってからも、紙の上では長く生き続けました。
1943年、まず機密水路図誌から消えた
中ノ鳥島が削除されていく過程には段階があります。
1998年の政府答弁によれば、1943年には中ノ鳥島が海軍の機密水路図誌から削除されました。
ただし、
1943年に日本のすべての地図や行政文書から中ノ鳥島が一斉に消えた
という意味ではありません。
一般の水路図誌で不存在として処理されるのは戦後です。
1946年、「精測の結果、存在していない」
1946年11月22日。
水路部告示第46号で、中ノ鳥島は一般の水路図誌からも削除されます。
告示の見出しは、
「南方諸島――中ノ鳥島 不存在」
でした。
そして、中ノ鳥島とその北方に記載されていた疑存礁について、精密な測量の結果、存在していないことが認められたとして削除することが示されています。
1908年に中ノ鳥島として行政上扱われるようになってから、約38年。
島を探しても見つからないという現実に、ようやく一般の水路図誌側が追いつきました。
それでも1946年1月のGHQ文書には「中ノ鳥島」が残っていた
さらに不思議なのが、同じ1946年でも1月の文書です。
1月29日に出されたSCAPIN-677には、日本政府の政治上・行政上の管轄から除外する外郭地域の列挙の中に、**「中ノ鳥島」**が含まれています。
すでに日本側では島の存在が強く疑われ、1943年には機密水路図誌から外されていたのに、別の行政文書には島名が引き継がれていました。
ただしSCAPIN-677は、中ノ鳥島の最終的な主権を認定した文書ではありません。
指令自体にも、最終的な小島嶼の決定に関する連合国の政策を示すものと解釈してはならない趣旨が書かれています。
ここでも見えるのは、
制度上の情報は、現実の確認結果と必ずしも同じ速度では更新されない
ということです。
中ノ鳥島は本当に海へ沈んだのか?
「島がない」と聞けば、次に浮かぶ疑問があります。
かつては本当に存在していて、その後海底へ沈んだのではないか。
火山活動によって新しい島が生まれ、その後の侵食で海面下へ消えること自体は現実にあります。
しかし、中ノ鳥島について、
一度実在した島が、その後沈没したことを示す信頼できる証拠は確認されていません。
しかも山田の報告した島は、小さな岩礁ではありません。
約2.13平方キロメートルの土地があり、植物が生え、島の大部分に厚い燐鉱層があり、数百万羽の鳥がいたという説明です。
そのような島が1907年には存在し、その後まもなく完全に消えたとするなら、それを裏づける別の証拠が必要です。
現時点では、
「中ノ鳥島は海に沈んだ」
と事実のように書くことはできません。
山田禎三郎は嘘をついていたのか?
それなら山田が架空の島を作り上げたのでしょうか。
ここも断定はできません。
ただし、山田の発見届には、後世の研究から見て不自然な点がいくつもあります。
平岡氏は、報告した座標と「小笠原から560哩」という距離が合わないことを指摘しています。
また、周囲1里25町と面積64万3700坪も整合しにくい。
島の8割に燐鉱があり、厚さや成分比まで具体的に記していることも、どのような調査で把握した数字なのか疑問が残ります。
さらに、8月に発見したとしながら「馬鹿鳥」数百万羽と記録している点、地図上の地形と「真鳥山」「日向平」「西向平」という地名がかみ合わない点も指摘されています。
かなり奇妙です。
しかし、
「奇妙な報告だった」ことと、「山田が故意に政府をだます目的で虚偽申告した」と証明されていることは別です。
山田には燐鉱採掘や捕鳥、全島借用の申請という経済的な動機につながり得る行動がありました。
ただ、それだけで詐欺目的だったと断定することはできません。
別の情報を信じていたのかもしれない。
位置や情報を混同したのかもしれない。
権利確保のため内容を誇張した可能性も考えられる。
しかし、本人が何を知っていたのかまでは確定していません。
中ノ鳥島を「山田禎三郎という詐欺師が政府をだました事件」と一言で片づけると、史料に残る不確かさまで消してしまいます。
1998年、政府が答えた「中ノ鳥島は今どこに?」
中ノ鳥島が再び国会で取り上げられたのは、1998年4月7日です。
参議院総務委員会で質問を受けた村岡兼造官房長官は、
1908年の閣議決定、
1943年の機密水路図誌からの削除、
1946年の水路告示による不存在の処理
を説明しました。
そのうえで答えたのが、
「中ノ鳥島の存在は現在確認されておりません」
という言葉でした。
「絶対に存在しない」と言い換える必要はありません。
1946年の水路告示では精測の結果「存在していない」と処理され、1998年の政府答弁では「現在確認されていない」と説明されています。
それが、現在確認できる公的な記録です。
中ノ鳥島で一番不思議なのは「島がなかったこと」だけではない
中ノ鳥島の話は、最初だけ聞けば簡単です。
誰かが存在しない島を発見したと報告した。
昔の政府がそれを信じて日本領にした。
後から探したら島がなかった。
しかし、公文書を追うと違う景色が見えてきます。
政府は、以前からガンジス島の存在が疑われていたことを知っていました。
水路部にも新島の実在を裏づける十分な資料はなかった。
山田の報告地点と、海図上のガンジス島の位置が違うことも分かっていた。
それでも、採掘、捕鳥、全島借用といった申請が動き始めていました。
行政区分を決める必要が生まれ、法制局も当時の法的な考え方の中で所属を整理した。
その結果、「中ノ鳥島」という名前が制度の中に生まれます。
そして、紙の上に島ができると、今度は人が動きます。
26人が本当に開拓へ向かいました。
海軍も調査しました。
外国軍人がその島へ向かおうとすれば、日本側も対応を考えなければならなくなった。
存在が確定していない島が、一度制度へ入ったことで、本物の船と、本物の役所と、本物の人間を動かしました。
ところが、現実の海には島が見つからない。
その食い違いが分かっても、すでに作られた海図や勅令、行政文書から名前が一斉に消えるわけではありません。
1943年。
1946年。
そして1998年。
何十年もの時間をかけながら、現実と記録のずれが少しずつ整理されていきました。
まとめ|地図に島があるから、そこに島があるとは限らない
現在、中ノ鳥島という島は確認されていません。
1907年、山田禎三郎は島を発見したと報告しました。
翌年、詳細な発見届を提出します。
面積もあった。
燐鉱もあった。
鳥もいた。
島内の地名もあり、地図まであった。
しかし海軍水路部にも、その島を確実に裏づける資料はありませんでした。
以前から海図にあったガンジス島も疑存島で、報告された位置も一致していませんでした。
それでも開発申請が進み、行政区分を決める必要が生まれ、「中ノ鳥島」という島が日本の制度の中へ入ります。
1909年の勅令にも、確かにその名前が残りました。
そして5年後。
26人が開拓するため海へ向かった。
27日間探しても、島はなかった。
海軍も探した。
それでも見つからなかった。
1946年、水路告示は「不存在」として中ノ鳥島を水路図誌から削除します。
それから半世紀以上が過ぎた1998年、政府は「存在は現在確認されておりません」と答えました。
中ノ鳥島の不思議は、
「島がどこへ消えたのか」ではありません。
今ある史料から見る限り、そもそも山田が報告したような島が実在したことを確認できていないからです。
それより不思議なのは、
存在を確定できないものでも、一度「ある」と判断され、地図や行政制度へ組み込まれると、それ自体が現実を動かし始めることです。
地図に描かれているから島が存在するのではありません。
人が「そこにある」と判断したものが、地図に描かれます。
そして、その判断が間違っていたとき。
一度できあがった地図や制度の中から、存在しないものを消すことにも時間がかかる。
中ノ鳥島は、太平洋上には見つかりませんでした。
けれど「中ノ鳥島」という島が、何十年ものあいだ人の社会の中に存在したことだけは、今も公文書がはっきり伝えています。
FAQ
中ノ鳥島とは何ですか?
1907年に山田禎三郎が発見したと報告し、1908年に日本政府が「中ノ鳥島」と命名して東京府小笠原島庁の所管とした島です。その後の捜索や測量で存在を確認できず、1946年には一般の水路図誌から不存在として削除されました。
中ノ鳥島は本当に日本領だったのですか?
日本政府は1908年に中ノ鳥島と命名・所管を決め、1909年の勅令第54号にも小笠原島庁の管轄区域として「中ノ鳥島」と明記しています。現在の国際法上の評価とは分け、当時の日本政府の行政制度では日本の島として扱われていました。
中ノ鳥島はどこにあるとされたのですか?
山田の発見届では北緯30度05分・東経154度02分です。ただし、それ以前から海図に載っていたガンジス島は北緯30度47分・東経154度15分付近とされ、位置が一致していませんでした。
なぜ中ノ鳥島は見つからなかったのですか?
1913~1914年の吉岡丸による捜索や、1927年の海軍測量艦「満州」による調査でも存在を確認できませんでした。1946年の水路告示では、精測の結果「存在していない」として水路図誌から削除されています。
中ノ鳥島が海に沈んだ可能性はありますか?
島が一時的に生まれて消える自然現象はありますが、中ノ鳥島が実在した後に沈没したことを示す信頼できる証拠は確認されていません。そのため「海底に沈んだ島」と断定することはできません。
山田禎三郎は嘘をついたのですか?
発見届には座標、面積、鳥の季節性などに複数の不自然な点が指摘されています。ただし、山田が故意に架空の島を作り上げたと確定できる直接証拠までは確認されていません。
現在の日本政府は中ノ鳥島をどう説明していますか?
1998年の参議院総務委員会で、村岡兼造官房長官は**「中ノ鳥島の存在は現在確認されておりません」**と答弁しています。